今日は、旧水戸藩邸と安政の大獄のきっかけとなった戊午の密勅(ぼごのみっちょく)について書きます。
京都にも、江戸と同じように各藩の藩邸がありました。
京都の水戸藩邸は、御所の蛤御門の近くにありました。
現在は京都ガーデンパレスになっていますが、その敷地の南側道路の下長者町通りに旧水戸藩邸跡と書かれた説明板があります。
下長者町通りは蛤御門の斜め西に入った通りです。
説明板によると旧水戸藩邸のあった住所は烏丸通下長者町西入北側だそうです。
水戸藩邸は、江戸時代の初めにはすでに置かれていて、貞享3年(1686)の地図「旧藩々上邸箇所」に記されているようです。
藩邸の広さは明治の初め藩邸が廃止される時期で1302坪ありました。
戊午の密勅(ぼごのみっちょく)の舞台は、御所と水戸藩邸です。
戊午の密勅(ぼごのみっちょく)は、安政5年(1858)8月8日に孝明天皇が水戸藩に勅諚を下賜した事件です。
「戊午(ぼご)」とは安政5年の干支が戊午(つちのえうま)であったことによります。
「密勅」というは、勅書降下の決定は関白が加わって決定されるという正式な手続を経ないまま降下されたことや幕府に対して勅諚降下が秘密にされていたことによるものです。
戊午の密勅が出されたのは、孝明天皇の意向に反して幕府が勅許をえず条約を調印し、御三家のうち尾張家や水戸家が処分されたことから孝明天皇が退位の意思表示をしたためです。
この退位を思いとどませるために、諸大名力を合わせて幕府の政治姿勢を正せとの勅諚を水戸藩に降下するということになりました。
この密勅の降下の中心となったのは、左大臣近衛忠熙、右大臣鷹司輔、内大臣一条忠香、前内大臣三条実万の四公で、関白の九条尚忠は参内せず協議に加わりませんでした。これが密勅と言われる所以です。
降下決定後、御所を退出した近衛忠熙は、8月7日の深夜、水戸藩京都留守居役の鵜飼吉左衛門を近衛邸に召し出し、勅書の降下を説明しました。
近衛邸は京都御所の北側にありました。現在も近衛池が残っています。
また、左写真は近衞邸跡の枝垂れ桜と呼ばれる桜です。京都御苑で一番早く咲き始める桜で、桜が咲く季節には大変きれいだそうです。
そして、8日早朝には、武家伝奏の万里小路正房が鵜飼吉左衛門を召し出し勅書を授け、道中鄭重に護衛して江戸に送達するように命じました。
この際に、勅書のほかに、武家伝奏の添書(そえしょ)が下されました。
それには勅書の列藩への伝達を命じ、追って書きで幕府への勅書の降下を知らせてありました。
鵜飼吉左衛門は61歳の高齢のため、江戸への送達は息子の鵜飼幸吉に命じました。
幸吉は、大坂蔵屋敷手代小瀬伝左衛門と名前を変え、即日京都を発ち東海道を下りました。
また万が一の事態に備えて、薩摩藩士の日下部伊三次が三条実万から受けた勅諚の写しをもって中山道を江戸に向けて下りました。
一方、幕府に対しては2日遅れの8月10日に武家伝奏から8月8日付の勅諚が禁裏付大久保忠寛に授けられました。
2日遅れて幕府に伝達されたのは、水戸藩に先に勅諚が到着するようにするためでした。
さらに、近衛忠熙らは、勅諚降下の事実を縁故のある大名に秘かに通報しています。
近衛家からは、尾張藩徳川家、薩摩藩島津家、津藩藤堂家、鷹司家からは加賀藩前田家、阿波藩蜂須賀家、長州藩毛利家、一条家からは熊本藩細川家、岡山藩池田家、土浦藩土屋家、三条家からは土佐藩山内家、越前藩松平家、二条家からは筑前藩黒田家に通報されています。
江戸の水戸藩邸には、8月16日深夜、鵜飼幸吉により勅諚が到着しました。
翌日17日に勅諚は水戸藩家老の安島帯刀により藩主慶篤に提出されました。
水戸藩の上屋敷はいうまでもありません小石川後楽園(右の写真は小石川後楽園の旧門です)ですが、水戸藩の中屋敷は、現在の東大農学部にありました。
徳川斉昭は安政5年7月5日に幕府より駒込屋敷での急度慎(きっとつつしみ)の処分を受け、駒込屋敷で謹慎していました。
慶篤は駒込屋敷に謹慎中の斉昭の意向を確認した上で拝受しました。
赤印が「旧水戸藩邸跡」の説明版、 青は蛤御門。蛤御門の斜め前の路地を西に入ったところに説明版があります。