長楽寺は、円山公園の南にあります。
長楽寺は建礼門院(平徳子)が壇ノ浦の戦いの後、この寺で出家したと伝えられる場所で、「平家物語」ゆかりの寺とされています。
現在大河ドラマが「清盛」なので、その関係で注目されている寺の一つでもあります。
右写真は、山門と山門前の参道ですが、「平家物語」ゆかりの寺にふさわしい奥ゆかしさのある参道です。
長楽寺は、延暦24年(805)最澄が延暦寺の別院として創建したのが始まりと言われていますが、現在の宗派は時宗です。
ご本尊様は准胝観音で、洛陽三十三所観音霊場第7番札所です。
左写真は、本堂ですが、寛文6年(1666)に建立された愛宕郡西賀茂村(現在の北区西賀茂)の正伝寺の法堂を明治23年に移築したもので、京都市指定文化財です。 木々の中にあり、暑さも忘れさせてくれました。
今回拝観したのは、「平家物語」との関係ではなく、長楽寺に、安政の大獄で処分された鵜飼吉左衛門、幸吉父子と頼三樹三郎のお墓があるからです。
鵜飼吉左衛門、幸吉、頼三樹三郎の墓は、長楽寺の本堂の裏手の山腹にあります。
鵜飼吉左衛門、幸吉の墓は、道路わきに設けられたたすりを頼りに細い山道を登った先にあります。
御住職の奥さまの話では、以前はてすりもなく、山腹をよじ登るような感じでお参りしましたが、今はよくなりましたと仰っていました。
右写真は、鵜飼吉左衛門のお墓です。
長楽寺では、頼三樹三郎のお墓もお参りしました。
頼三樹三郎のお墓は、鵜飼父子のお墓に比べれはずっと楽でした。
頼三樹三郎のお墓は頼一族のお墓のなかにあります。
長楽寺は頼家の菩提寺だったそうです。
それでは、安政の大獄について書いていきます。
特定の藩に勅諚が降下したことは前代未聞のことでした。
この密勅降下は井伊大老はじめ幕閣を強く刺激し、安政の大獄を引き起こすきっかけとなりました。
安政5年9月3日老中間部詮勝を急いで上京させます。これ以前8月16日には、京都所司代酒井忠義(小浜藩主)が出発しており、両者が着任した後、尊攘志士や公家の家士の捕縛する有名な「安政の大獄」が始まります。
酒井が京都に着いたのは9月3日です。捕縛の第一の標的は梅田雲浜でした。
梅田雲浜は元小浜藩士つまり酒井忠義の元家臣でした。
梅田雲浜が逮捕されたのは9月7日です。 これが安政の大獄の始まりとされています。
老中の間部詮勝は9月17日に入京しましたが、入京した翌日、水戸藩の鵜飼吉左衛門・幸吉父子に出頭を命じ、そのまま逮捕し六角獄舎に投じました。
左写真は鵜飼幸吉の墓です。
鵜飼父子の逮捕の理由は、戊午の密勅の降下に関わったことでした。江戸で水戸藩が抗議しましたが却下されました。
鵜飼父子は逮捕前に危ない文書は処分してから奉行所に出頭しましたが、父子が江戸に送った密書が幕府の手に渡りました。
その密書の内容を受けて、鷹司家諸太夫の小林良輔らを逮捕しました
これは強硬派の公家に大きな衝撃を与え、朝廷側が妥協し始めます。
間部詮勝の任務は、条約調印を朝廷に容認してもらうことでした。
その交渉を有利に進めるため、間部詮勝はさらに公家の家臣らの逮捕を強化していきます。これにより逮捕者が増えていきます。
頼三樹三郎は11月30日に逮捕されました。
右上写真が頼三樹三郎のお墓です。
京都で逮捕された人々は、順次、江戸に送られました。
江戸に送られた人々は、五手掛の審問を受けることになりました。
鵜飼幸吉が受けた審問回数は7回、鵜飼吉左衛門は3回となっています。
刑の宣告は、8月27日、10月7日、10月27日の3回にわたって言い渡されました。
第1回目は、水戸藩への勅諚降下に関係した人々が処分されました。
水戸藩家老安島帯刀は切腹、水戸藩士鵜飼吉左衛門は死罪、鵜飼幸吉は獄門、鷹司家諸太夫小林良輔は遠島に処せられました。
鵜飼父子は、小伝馬町牢屋敷で斬首されましたが、鵜飼吉左衛門は刑場に臨んで「一死もとより惜しむところではないが、心にかかるのは君公の安危である」と述べ、幕吏からつつがないことを知らされ、泰然と死につきました。
幸吉は獄門の極刑を言い渡された時、幕吏を睥睨するかのごとく冷笑したと言われています。幸吉は、斬首された後小塚原に梟首されました。
第2回の判決では、越前藩士橋本左内、頼三樹三郎らに死罪が申し渡されました。
そして、小伝馬町牢屋敷で斬首されました。
頼三樹三郎の遺言によりお墓は長楽寺に建てられたそうです。
頼三樹三郎は、頼山陽の三男ですが、頼家の墓地の中には頼山陽のお墓(左上写真)もありました。
第3回目の判決では吉田松陰が死罪とされました。吉田松陰も小伝馬町牢屋敷で斬首されました。
吉田松陰については、2010年4月にシリーズで書いてありますので、ご興味ある方は、 「松陰の生い立ち」 からお読みください。
赤印が長楽寺です。