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橋本家跡と和宮(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日は、橋本家跡と和宮降嫁について書きます。 
 京都御所の周辺、現在、京都御苑となっている区域は、江戸時代は、公卿の屋敷が立ち並んでいました。
橋本家跡と和宮(江戸検お題「徳川将軍15代」)_c0187004_1422387.jpg 一例を挙げれば、近衛家は先日書いたように御所の北側、一条家は御所の北西(右最下段の写真)、鷹司家と九条家(左最下段の写真)は御所の南側といった具合です。

 その中で、和宮の生まれ育った橋本家も現在の京都御苑の一画にありました。
 橋本家は、京都御所の東側、建春門の北東の地にありました。
 現在は、「皇女和宮生誕の地(橋本家跡)」と書かれた柱と説明板が林の中に建っています。
 橋本家は、閑院流の公卿で、家格は羽林家でした。
 羽林家は、、摂家、清華家、大臣家の次で、近衛の少将から最高位は正二位権大納言でした。


 橋本家跡の南側には、学習院がありました。橋本家跡と和宮(江戸検お題「徳川将軍15代」)_c0187004_1551314.jpg そのため建春門の斜め北側に「学習院跡」と書かれた柱と説明板が建てられています。
 学習院は、弘化4年(1847)に孝明天皇が、を建て、40歳以下の公卿や、御所に勤めている役人及びその子弟を集めて学問を教えるために建てた学問所です。
 東京の学習院と名前は同じですが、直接的なつながりはないとのことです。

 それでは、和宮について書きます。
橋本家跡と和宮(江戸検お題「徳川将軍15代」)_c0187004_1473962.jpg  和宮は、弘化3年(1846)閏5月10日、京都御所の東に隣接する橋本邸において、仁孝天皇の第八皇女として生まれました。母は仁孝天皇の側室・橋本経子(後の観行院)です。
父の仁孝天皇は1月26日に崩御しているので、父君の顔を知らない皇女として生まれました。
 閏5月16日、孝明天皇より和宮の名を賜りました。その後、母の しても、和宮は橋本家で養育されました。
 和宮の祖父橋本実久は当時議奏の職にありました。
 左写真は増上寺にある和宮の銅像です。


 嘉永4年(1851)7月12日、孝明天皇の命により有栖川宮熾仁(たるひと)親王と婚約します。
橋本家跡と和宮(江戸検お題「徳川将軍15代」)_c0187004_1762856.jpg  和宮は6歳、有栖川宮は17歳でした。
 有栖川宮家は、伏見宮・桂宮・閑院宮と並ぶ四親王家の一つでした。
 通常であれば、このまま結婚ということになりますが、御存じの通り、朝幕の緊張関係がそれを許しませんでした。
 有栖川宮家の屋敷は京都御所の南にありました。。
 右上写真のように有栖川宮家の跡も、京都御苑の中にありました。

 井伊大老の主導の元で、安政の大獄が進められ、尊攘派や朝廷への圧力が強められる中で、朝幕間の収拾策として、井伊大老側が公武合体策を検討し始め、朝廷側にもその意向が打診されています。
当初の候補は和宮ではなく、この年に生まれた孝明天皇の皇女富貴宮でした。しかし、。富貴宮が死去したため、降嫁の候補者は和宮となりました。
橋本家跡と和宮(江戸検お題「徳川将軍15代」)_c0187004_142515.jpg 家茂側では、当初は将軍家茂の縁談相手であった伏見宮貞教親王の妹倫宮(みちのみや)との縁談も打ち切られ、倫宮は和歌山藩主徳川茂承(もちつぐ)と結婚することになりました。
 そして、安政の大獄を推進していた井伊直弼は、安政7年(1860)3月3日に桜田門外の変で水戸浪士に暗殺されました。
 こうした状況下で、井伊大老の後を受けた久世・安藤政権により、公武合体策がより一層強力に推進されるようになりました。
 万延元年(1860)4月12日、幕命を受けた所司代・酒井忠義が武家伝奏の広橋光成と坊城俊克を所司代屋敷に呼んで関白・九条尚忠を通じてを孝明天皇に和宮の降嫁をお願いしました。
 しかし、孝明天皇は議奏・武家伝奏に諮った上で内願を却下しました。
 その理由は
 ①和宮には既に熾仁親王との婚約が成立していて婚約を破談にできない。
 ②先帝の娘であり異腹の妹である和宮の進退は、天皇の意志のままにはできない。
 ③年少の和宮が夷人のいる関東へ行くのを嫌がっている。
というものでした。
 幕府は、朝廷への工作とともに和宮の生母観行院と伯父の橋本実麗に対して、両名にとっては叔母に当たる元大奥上臈年寄の勝光院を通じての説得工作を行いました。
橋本家跡と和宮(江戸検お題「徳川将軍15代」)_c0187004_1431079.jpg 橋本実麗は説得に折れ、何事も天皇の思召しに従うと言上しました。
 思案に窮した孝明天皇は、侍従の岩倉具視に意見を求めました。
 岩倉は「幕府に通商条約の引き戻し(破約攘夷)を確約させ、幕府がこれを承諾したら、御国の為と考え、和宮を説得し納得されたならば、降嫁を勅許するべきと考えます」と回答しました。
 6月22日、天皇は「攘夷を実行し鎖国の体制に戻すならば、和宮の降嫁を認める」旨の勅書を出し、幕府  が7月29日に「10か年以内の鎖国体制への復帰」を奉答したことで天皇は和宮の降嫁を決断しました。
 しかし、和宮は拒絶し続けたため、孝明天皇の相当の覚悟を決めました。
 同13日の九条尚忠に宛てた書翰によれば、
「(降嫁に反対する)橋本実麗・観行院の両名を罰するよう幕府に依頼し、和宮も降嫁の話を断って有栖川宮と縁組しようとしても自分は認めないから、尼になるしか道はない」
として、自分自身も譲位の意思を固めていました。
 天皇の譲位の決意、親族への圧力を示唆された和宮はついに降嫁を承諾するに至りました。
 8月15日、和宮の母観行院から和宮が降嫁を内諾する旨が奏上されました。
 降嫁にあたって和宮は5か条の条件をつけました。
①父・仁孝天皇の十七回忌の御陵参拝の後に関東に下向し、以後も回忌ごとに上洛させること。
②大奥に入っても、万事は御所の流儀を守ること。
③御所の女官1名をお側付きとすること。
④御用の際には伯父の橋本実麗を下向させること。
⑤御用の際には上臈か御年寄を上洛させること。

 また孝明天皇は、降嫁勅許の内定を幕府に伝えるとともに別に、
 ①和宮の提示した条件を遵守すること。
 ②老中が交代しても攘夷の誓約は変わらないこと。
 ③和宮の降嫁は公武の熟慮の上で決定されたことを天下に周知させること。
 ④外国との貿易によって国民生活が窮乏しないよう国民の生活にも目を向けること
などについて老中の確約を求めました。

 幕府は、年内11月までの下向を要請しましたが、和宮は拒絶しました。
 しかし、その後の幕府の執拗な働きかけの結果、和宮が翌年春の下向を承諾しました。

文久元年10月に江戸に下向し、文久2年2月11日に家茂と和宮の婚儀が行なわれましたが、このように和宮の降嫁は、多くの余曲折を経たのちに実現したものでした。

 赤印が橋本家跡  青印が学習院跡  緑が有栖川宮家跡 黄色が建春門  です。

by wheatbaku | 2012-08-15 13:59 | 江戸検お題「徳川将軍15代」

江戸や江戸検定について気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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