京都御所の東側に梨木神社があります。(右下写真は梨木神社の鳥居)
この神社の御祭神はどなたかご存知ですか?
私も、今回、京都に行くまで知りませんでした。
この梨木神社の御祭神は、三条実万(さねつむ)と三条実美です。
三条実万は、三条実美の父です。
由緒書きによると、
実萬公は、才色兼備菅原道真公の生まれかわりと崇められ、当時の人々から今天神様と称せられたと言われています。
公は早くから王政復古の大儀を唱えて明治維新の原動力となられ明治二年、明治天皇から忠成公の謚(おくりな)を賜りました。
そして明治十八年、実萬公をお祀りするお社として梨木神社が創建されるにいたりました。」
と書かれていて、明治18年に創建された神社です。
そして、三条実美は大正4年、大正天皇の即位式にあたり第二座御祭神として梨木神社に合祀されたのでした。
梨木という名前は、三条家の御屋敷が梨木町にあったことにちなんでつけられたようです。
左上写真は、梨木神社の本殿です。
梨木神社には、京都の三名水(醒ヶ井、県井、染井)のひとつである「染井の井戸」が神社の境内に手水舎(右写真)として現存しています。
参拝の際にも、持参したペットボトルに名水を汲んでいる人がいました。
実際に飲んでみると、大変まろやかで、炎天下を歩いていたので、生き返るようでした。
この井戸はかつて文徳天皇の皇后明子の方の里御所の跡にあったもので、宮中御用の染所の水として染井の水が用いられたという由緒があるそうです。
さて、それでは、文久2年の三条実美の動きを書いてみましょう。
和宮降嫁をきっかけとして、朝廷は幕政に一段と介入をしようとします。
その第一弾が、6月10日に島津久光が護衛して江戸に下向した勅使大原重徳です。
この時に、大原重徳はいわゆる三事つまり①将軍上洛 ②沿海の大藩を五大老として幕政に参与させること ③一橋慶喜を将軍後見職、松平春嶽を大老とすること を要求しました。
これを受けて、7月6日に一橋慶喜が将軍後見職に、7月9日には松平春嶽が政治総裁職になりました。
この島津久光の上洛、江戸下向、帰洛の中で、重要な事件が起きています。
上洛後の文久2年4月23日に起きた寺田屋事件と帰洛中の8月21日に起きた生麦事件です。
詳細は、また別の機会に書きますが、寺田屋事件は、薩摩藩の過激攘夷派の藩士を久光の命をうけた薩摩藩士が寺田屋で殺害した事件で、生麦事件は、久光の行列を横切ったイギリス人を護衛の薩摩藩士が殺害した事件です。
こうした出来事が起きた後、薩長二藩に刺激された土佐藩では、文久2年8月、土佐藩主山内豊範(とよのり)が武市半平太など多くの尊攘派を従えて入京しました。
これを受けて、薩摩・長州・土佐藩主名で、再度、勅使を派遣して、幕府に攘夷の勅命を伝えてほしいとの建議がされました。
この勅使として10月12日に下向したのが、三条実美と姉小路公知です。
土佐藩主山内豊範は勅使護衛を命じられ、武井半平太も柳川左門の仮名を使い随行しています。
10月28日に江戸に着き、江戸城に入城しています。
攘夷勅使を受けて、幕府内は混乱しましたが、最終的に、12月5日に、将軍家茂は天皇の攘夷の意思を奉承したとの回答を提出し、策略等は上洛し委細申し上げると回答しました。
こうした回答をしたため、将軍家茂は、翌年春に上洛せざるをえないことになります。
この下向の時、三条実美は26歳でした。
尊王攘夷派の過激公卿の中心として活動していました。
勅使として下向中に、朝廷で新たに設られた、攘夷のための国事御用掛し任命されています。
そもそも、三条家は、藤原氏北家閑院流の嫡流にあたる公卿で、公卿としての家格は、摂関家につぐ清華家であり、高級公卿でした。
三条実美は、この後も、幕末・明治維新の中心人物として活躍しますので、これからも何度も名前が出てくると思います。
ところで、三条実美は、明治24年、55才でなくなりました。
そして、神として梨木神社にお祀りされていますが、お墓は、東京の護国寺にあります。
写真でみてお分かりになると思いますが、寺院にありながら鳥居があるという、非常に珍しいお墓になっています。
赤印が梨木神社です。京都御苑の東側にあります。