三条実美と姉小路 公知が下向して攘夷の決行を迫った時に、将軍家茂が上洛すると回答したため、家茂は上洛せざるをえなくなりました。
そのため、文久3年2月に上洛することにしました。
寛永11年に3代将軍家光が上洛して以来約230年ぶりの将軍上洛ということになりました。
経路については、当初陸路と海路が検討されました。いったんは海路上洛が決定していました。海路であれば、数日で大阪まで行けますので出費が少なくてすみます。
しかし、万が一のこともあり。将軍周辺の側近や大奥が反対しました。また、生麦事件の 賠償を要求するイギリス極東艦隊が横浜に集結しつつあり、海路を遮られる恐れがあるため、出発直前に陸路とすることとなりました。
家茂は、文久3年2年月13日に江戸を出発しました。
行列は3千人で、家光上洛の時は30万人でしたので、それに比べると百分の一の規模でした。
従うのは老中水野忠精、板倉勝静などの幕閣、越後高田藩主榊原政敬、豊前小倉藩主小笠原忠幹など譜代名門の大名でした。
家茂の前方には、講武所の鉄砲部隊が進み、駕籠周りは講武所剣術方50人が護衛しました。
騎馬が100人、鉄砲隊が700人でした。
駿府では、家光同様に久能山東照宮に参拝しましたが、将軍の参拝は家光以来の約230年ぶりのことでした。
そして出発以来22日をかけたゆっくりとした日程で3月4日に京都に到着しました。
230年ぶりに将軍を迎えるため、二条城は二の丸を中心に修復工事が行われ、家茂は東大手門(右上写真)から二の丸御殿に入りました。
二の丸御殿の玄関には、一橋慶喜、松平春嶽、徳川慶勝などが出迎えました。
家光の時には、朝廷から大臣・大納言などが出迎えましたが、今回、朝廷側は誰も迎えませんでした。
左上写真は二条城の二の丸御殿の車寄です。もともと殿舎の廂(ひさし)の屋根を張り出し,下を敷石にした場所です。ここに牛車を寄せて昇降するために設けられたため車寄と呼ばれます。
3月7日に、家茂は参内しました。
午前8時過ぎに駕籠にのり東大手門を出た家茂は堀川通りを北上し、御所の外構九門の内の中立売門脇にあった施薬院に入り、単の衣冠に装束を替えて待機しました。
右写真は中立売門です。
京都御苑の周囲には9個の門があります。
これを外構九門というそうですが、御所の西側には、北から、乾門、中立売門、蛤御門、下立売門と四つの門があります。
正午過ぎ家茂は轅(ながえ)に乗り中立売門から宜秋門前まで騎馬の大名を従えて進みました。 轅は、輿に長柄を通して10人くらいが担ぐ乗り物です。
そして、御所の西面の最も南にある宜秋門(ぎしゅうもん)の石段の一番上で轅から降りて、沓(くつ)をはいて門内に入りました。
宜秋門は、公家が出入りするための門であるため公家門とも呼ばれていました。
その後、小御所近くの麝香の間で控え、鶴の間代という場所で関白鷹司輔煕はじめ大臣と挨拶しました。
そして、小御所で孝明天皇に拝謁しました。
小御所(左写真)は、皇太子の元服(成年式)などの儀式に用いられ、天皇が幕府の使者、所司代、諸侯などを謁見した場所です。
小御所での対面では、孝明天皇は、上段に座し、家茂は下段で拝礼したのち、中段に進み、勅語を賜ったのち天杯を受けました。
この参内において、家茂、和宮、天璋院から、天皇・親王に黄金・白銀などの献上がされ、洛中には、寛永の家光の例にならい銀5千貫が下されました。
今回、京都御所内の参観は時間がなくてあきらめましたが、参観手続きは難しくないので、時間のある時に参観の申し込みをしたいと思います。