下鴨神社のご祭神は、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と玉依媛命(たまよりひめのみこと)です。
玉依姫命(たまよりひめのみこと)は賀茂氏の祖神である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の子で、賀茂川の川上から流れてきた丹塗(にぬ)りの矢によって身ごもり、別雷神命(わけいかづちのみこと)を生んだといいます。
別雷神命は上加茂神社の御祭神ですので、下鴨神社の御祭神は、上加茂神社の御祭神の母神と祖父神を祀っていることになります。
そこで、下鴨神社は正式には「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」と呼ばれます。
下鴨神社の社殿は、文久3年(1863)再建の国宝の本殿二棟のほか重要文化財の殿舎が五十三棟など多数あります。そのうち主要なものを紹介します。
【楼門】
重要文化財である楼門は高さ30メートルあります。
楼門、東西の廻廊(かいろう)とも式年遷宮寛永5年度(1628)造替だそうです。
それまでは、21年ごとの式年遷宮ごとに造替されてきましたが寛永度以降は解体修理をして保存されています。
【中門】
楼門を入ると、舞殿があります。舞殿も重要文化財です。
その舞殿の奥に中門があります。
中門をくぐると「干支の守護神(言社)」(重要文化財)が並んでおり、正面に幣殿があります。
現在の中門は、寛永5年(1628)に建て替えられたものといわれ、重要文化財に指定されています
【幣殿(へいでん)】
幣殿は一般の神社の拝殿に相当し、ここから奥の本殿に向かって拝礼をします。
一般の拝殿を想像していたのですが、少しイメージが違うので一寸ビックリしました。
幣殿は国の重要文化財に指定されています。幣殿から奥の本殿に向かってお祈りをします。
【本殿】
幣殿の奥に国宝の本殿がありますが、通常は近づくことはできません。
そのため、通常、本殿は格子越しにしか見ることができませんが、私が行った時期は、夏の特別公開でしたので、本殿を拝観することができました。
本殿は東西2棟あり、西本殿と東本殿があります。西本殿は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)東本殿には、玉依媛命(たまよりひめのみこと)が祀られています。
東西2棟の本殿はともに「流造り」で、屋根は檜皮葺の建物で、幅は三間でさすが国宝と思わせる立派な建物でした。
しかし、写真撮影禁止でした。そこで、本殿の脇にあり日頃は非公開の三井神社の写真を載せておきます。
三井神社は、下鴨神社の祭神玉依媛命(たまよりひめのみこと)とその両親神が祀られています。
なぜ三井神社というか由来は不明です。
【細殿(ほそどの)】
「細殿」は、歌会、茶会などが行われる殿舎です。歴代天皇の行幸、上皇、法皇、院、関白の賀茂詣の時に、歌会などが行われた社殿です。
後で述べるように文久3年の賀茂行幸の際には、将軍家茂の待所になりました。
寛永5年(1628)に建て替えられたもので、重要文化財です。
さて、加茂行幸について書きます。
家茂が上洛して二条城に入った文久3年3月4日に、朝廷から、3月11日に行われる下鴨神社と上加茂神社に攘夷祈願のための行幸へ供奉するよう命じられました。
天皇の御所以外への行幸は、寛永3年の後水尾天皇の二条城行幸以来ありませんでした。
慶安4年(1651)の後光明天皇による仙洞御所への行幸から数えても実に212年ぶりのことだそうです。
上加茂神社での記録では、後醍醐天皇の建武元年(1334)の行幸以来529年ぶりのことでした。
3月11日の午前2時頃(真っ暗なうちですね)に二条城を駕籠で出発した家茂は、施薬院で単の衣冠に替え、午前6時頃轅に乗り宜秋門から参内し、麝香の間で鳳輦(ほうれん)の出発を待ちました。
そして、10時頃出御した天皇が乗る鳳輦(ほうれん)を紫宸殿の回廊で拝しました。
50余人に担がれた鳳輦は、建礼門を出て、さらに外構九門のうちの清和院御門を通り御所を出発しました。
左写真が、清和院御門です。三条実美をお祀りしている梨木神社の鳥居の近くにあります。
鳳輦に従ったのは、関白鷹司輔熙、右大臣二条斉敬 、内大臣徳大寺公純、大納言近衛忠房など53人でした。
武家は、岡山藩主池田茂政が先陣を務め、家茂は後陣で鳳蓮に従いました。家茂の後に一橋慶喜が進み、その後方に老中たち幕府役人が続きました。松平春嶽は参加しなかったようです。
当日は雨だったそうです。
下鴨神社には午前11時ごろ到着しました、
家茂は、一の鳥居前で馬を下り、鳳輦は下鴨神社境内を進み、天皇は中門下で鳳輦を降り、幣殿にて拝礼を行いました。家茂は、その間、中門を潜らず、細殿で待機していました。
上加茂神社に向かったのは午後1時ごろでした。
上加茂神社には、午後4時前に着き、上加茂神社を出発したのは午後6時ごろでした。
御所に帰り着いたのは夜半で、家茂が二条城にかえりついた時には日付が変わっていたそうです。