新撰組の母体となったのは「浪士組」です。
家茂が上洛したのは文久3年(1863)3月4日ですが、この前の年文久2年には、京都では、天誅と称した、殺人事件が数多く起きていました。
文久2年(1862)7月20日、関白九条尚忠の家臣の島田左近が、薩摩藩士の田中新兵衛らに暗殺され四条河原に首をさらされました。
文久2年閏8月30日には、奉行所の岡っ引き猿の文吉(ましらのぶんきち)が、岡田以蔵たちにより、三条河原で殺害され、裸で河原の杭に縛り付け晒されました。
文久3年1月22日には、儒学者池内大学が大坂で殺害され、首は難波橋に晒され、耳は脅迫文と共に同月24日に正親町三条実愛、中山忠能の屋敷に投げ込まれました。
こうした状況でありながら、京都所司代、京都東町西町奉行所は、あまりにも弱体で、京都の治安を維持できない状況でした。
このため、先日書いたように京都守護職が設置されたわけです。右上写真は、京都守護職の本陣がおかれた金戒光明寺の御影堂です。手前の大きな松が「熊谷直実鎧掛けの松」です。
こうした状況で、将軍家茂が上洛することになり、一層の治安維持が求められる状況となりました。
そこで、幕府は、清河八郎の献策を取り上げ、江戸から送り込んだ浪士により京都で狼藉を働く浪士を取り締まろうとしました。これが「浪士組」です。
「浪士組」は、文久3年(1863)2月8日、小石川伝通院に集まり、京に向けて中山道を上洛し、23日に京都に到着し、八木家など壬生村の郷士宅に寄宿しました。
到着早々に清河八郎が、浪士組を、攘夷運動の先兵に利用としていた本当の狙いを伝えたため、将軍家茂が入京する前日の3月3日に浪士組には帰還命令が出されました。
この時に、江戸に戻ることに反対して、京都に残ったのが芹沢鴨や近藤勇を中心とするメンバーです。これが新撰組となります。
芹沢鴨や近藤勇たちは、壬生の八木家に寄宿していました。そのため、後に八木家が新撰組の屯所となりました。
3月10日残留希望者17人が会津藩に滞京許可の嘆願書を出します。これに名を連ねた人々は、芹沢鴨、新見錦、近藤勇、土方歳三、山南敬介、沖田総司などです。
加茂行幸の翌日の3月12日、会津藩が、滞京希望の浪士17人を預かることになりました。
3月13日、清河八郎ら大部分の浪士組は、江戸に向けて京都を出発しました。
残留した浪士たちは、従来から寄宿していた壬生の郷士八木家を屯所とし、「壬生村浪士屯所」の看板を掲げました。
そのため、「壬生浪士」と呼ばれました。この時には、メンバーは24名になっていました。
新撰組と称するのは、八月十八日の政変以降であったと言われています。
八木家は、戦国時代末期に越前の戦国大名となった朝倉家の一族で、朝倉家滅亡のとき八木姓を名乗ったのが初めとされているようです。
その後、壬生に移って郷士となったといいます。
菩提寺が壬生寺で、先祖代々壬生狂言の世話役をしています。
八木家の建物は、長屋門(左上の写真)が文化元年(1804)、主屋(右写真)が文化6年(1809)に建設されたもので、現在京都市の有形文化財の指定を受けています。
八木家については、2011年 09月 14日付で「八木家(壬生③ 京都幕末史跡めぐり)」でも書いていますので、そちらもご覧ください。