現在、京都府庁は欅並木の美しい釜座(かまんざ)通りの正面にあります。
京都府庁庁舎の旧本館は国の重要文化財です。
明治37年12月20日に竣工し、地上2階建、延床面積約6,100平方メートルあります。工期3年余、総事業費は当時では破格の約36万6千円を要しました。
建物の外観は、正面の一段高くなった屋根を中心として左右両翼に対称に張り出した形となっています。すごく風格のある立派建築物で驚きました。
幕末には、ここに京都守護職の屋敷がありました。
会津藩は、江戸時代、京都に藩邸を持っていませんでした。
そのため、先日書いたように、文久2年(1862)12月、藩主の松平容保が京都守護職に任命され上洛した当初は、黒谷の金戒光明寺を本陣としました。
しかし、文久3年の末ごろからしだいに御用屋敷が整備されていきました。
まず、京都所司代屋敷の北側に御用屋敷が造営されました。
さらに、京都守護職の中心的な屋敷が、下長者町通りを北辺とし、南辺を下立売通り、東辺を新町通り、西辺を西洞院通りとする範囲に築造されました。
これが、現在の京都府庁になっている場所です。
京都府庁正門を入ると右手に石柱と『説明板が設置されています。
休日には正門が閉鎖されていて、東門からのみ入れます。
京都守護職の中心屋敷は、現府庁である釜座(かまんざ)の屋敷ですが、松平容保は、京都守護職屋敷に常駐していたわけではないようです。
昨日書いた清浄華院(しょうじょうけいん)を松平容保が一時期宿舎にしてこともありました。
このことは、清浄華院のお坊さんの説明もありました。
現在、清浄華院の阿弥陀堂となっている建物は、以前は松林院という塔頭だったそうです。これが、松平容保の宿舎として利用されました。
これは、文久3年12月13日、翌年正月の将軍家茂の上洛が予定されていたため、それまで仮館としていた施薬院から清浄華院に移ったのです。
それは、将軍が参内するときには、必ず、施薬院で衣冠を改めていたため、家茂の上洛の際には家茂が使用するようになるからです。
また、御所の南にある凝華洞(ぎょうかどう)を仮館にしたこともあります。
凝華洞跡についての説明板には次のように書かれていました。
江戸時代第111代後西天皇退位後の仙洞御所があったところといわれています。
1864(元治元)年禁門の変の頃、京都守護職に任じられていた会津藩主松平容保は病を患い、朝廷の配慮もありここを仮宿舎にしました。
このように、幕末期は激動の時期でしたので、京都守護職の松平容保の宿舎は、その時の情況に応じて臨機応変に変わったものと思われます。
さらに、鴨川の東側の聖護院村にも用地を与えられ、ここを練兵場として活用しました。
このように、会津藩では京都守護職の任務を果たすため、いくつかの屋敷が整備されました。
現在、京都守護職の屋敷の門が、京都市内に2か所残されています。
京都守護職屋敷門が、二条城近くの京都国際ホテルの東側駐車場に残されています。
江戸時代、京都国際ホテルの敷地は江戸時代には越前福井藩の京屋敷でした。
ここに、京都守護職屋敷の西洞院御門を明治になって移築したというのが京都国際ホテルの説明でした。
ちなみ、京都国際ホテルの敷地は、明治になってからは、藤田観光などの創業者藤田伝三郎の別邸でした。
また、もう一つ京都守護職屋敷の門が残されていました。
それは、京都会館北側の冷泉通りに面した平安神宮の駐車場に残されています。
現在は、駐車場の片隅にあるように見えます。
しかし、この門の北側には、京都武道センターがあります。その中に、明治28年に建てられ、国の重要文化財に指定されている旧武徳殿があります。
元京都守護職屋敷門は、もともと、この武徳殿の正門として利用されていたものです。