八月十八日の政変とは、文久3年8月18日、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件です。
上洛した将軍家茂は当初10日間の滞京の予定でした。しかし、朝廷によりずるずると引き留められました。
上洛早々の3月11日の加茂行幸の後、4月11日には石清水八幡宮への行幸も行われました。
この時は、病気を理由に、家茂は随行しましせんでした。
しかし、譲位実行の要求は強く、ついに5月10日が譲位実行日と定まります。
この間、家茂は、4月21日に大坂城に向かい、順動丸に乗って大阪湾を巡航しています。この時の艦長が勝海舟です。
その後、5月11日に京都に戻り、江戸に帰ることを奏上しますが、なかなか許可がおりませんでした。
5月24日になってようやく帰府の許可がおりたので、帰路は海路を取ることに、6月9日に京都を発ち6月13日に大坂天保山沖からを 順動丸に乗って江戸に帰りました。
この将軍家茂の帰府と入れ違いに、御親征を強く主張する久留米藩士の真木和泉が入京します。
真木和泉は学習院にも出仕し、公卿に大きな影響を与えました。
そして、国論を攘夷に向けて一致させるため、天皇による攘夷親征が尊攘急進派によって企てられました。
この攘夷親征は大和行幸と呼ばれ、孝明天皇が大和の神武天皇陵と春日大社に行幸して、次いで伊勢神宮にまで行幸するというものでした。。
この大和行幸実施の詔が8月13日に発せられました。
しかし、この大和行幸は、尊王攘夷派が中心となって画策したもので、孝明天皇は、熱心な攘夷主義者ではあったものの、攘夷急進派の横暴を快く思っておらず、攘夷の実施についても幕府や諸藩が行うべきものと考えていました。
大和行幸が発せられた8月13日の夜、三本木で会津公用局の秋月悌次郎を薩摩藩の高崎左太郎(正風)が訪ね、会津藩と薩摩藩が手を結び、攘夷派を一掃することを提案しました。
秋月はすぐに松平容保にその話を伝えて承認をとりました。
8月15日、松平容保の了解のもと、薩摩藩の高崎左太郎(正風)と会津藩の秋月悌次郎が、公武合体派の中川宮を訪れて計画を告げました。
計画に同意した中川宮が翌16日に参内して孝明天皇に奏上しましたが、孝明天皇はすぐには決断しませんでした。しかし、その夜、天皇から中川宮に密命が下りました。
8月18日午前1時頃、中川宮と松平容保、京都所司代淀藩主稲葉正邦、ついで近衛忠熙(前関白)・二条斉敬(右大臣)・近衛忠房らが参内し、4時ごろに会津・薩摩・淀藩兵により御所九門の警備配置が完了した。
午前4時ごろ、一発の砲声が鳴り響きました。九門警備完了の合図です。
土佐、鳥取、徳島、米沢など在京の諸藩主にも兵を率いて参内を命じ、兵を率いた諸藩主が参内し、諸藩兵がさらに九門を固めました。
そして、朝議によって、大和行幸の延期が決まり、三条ら尊攘急進派公家に禁足を命じるとともに他人との面会の禁止も命じました。
また、国事参政、国事寄人の二職が廃止となりました。そして尊王攘夷派の中心である長州藩は堺町御門(左上の写真)の警備を免ぜられ、薩摩藩がかわることになりました。
朝廷内は、公武合体派の公卿によって占められ、尊攘派公家は失脚することになりました。こうした事態に驚いた尊攘派公卿は急いで参内しようとしましたが、門を入ることができませんでした。
長州藩も、堺町御門や鷹司邸(左写真)近くに集まりました。これに対して薩摩藩・会津藩も藩兵を向かわせました。
一側触発の事態の中で、両陣営が対峙していました。その長州藩に対して退去するよう勅命が下り、長州藩が大仏方広寺に兵を引き上げます・
そして、翌19日、方広寺から移動して妙法院にいた長州藩兵2千余人は失脚した三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の公家7人とともに、雨の中、長州へと下りました。
これがいわゆる七卿落ちと言われるものです。