京都で禁門の変が起きた時、将軍家茂は、江戸にいました。
八月十八日の政変は文久3年に起きていますが、家茂は、政変が起きた後の文久4年正月に上洛しています。
2回目の上洛は海路を利用しています。
文久3年も押し迫った12月27日に翔鶴丸に乗船し、順動丸などを従えて品川を出発しました。
航海の指揮をとったのは、軍艦奉行並の勝海舟でした。
家茂は文久4年の元旦を下田で迎えました。
通常であれば江戸城で諸大名の年賀を受けているはずですが、下田での新年をどんな気持ちで迎えたのでしょうか?
そして、家茂は、正月8日に無事大坂城に入り、正月14日には上京しました。
約4か月滞在した間、孝明天皇と将軍家茂の親密度も深まり、公武合体が完成の域に達しました。
家茂は5月7日に二条城を発ち、その日のうちに大坂城に入りました。
そして、摂海を視察した後、5月16日に軍艦翔鶴丸に乗って江戸に向かい、江戸には20日に到着し浜御殿で上陸しました。
この時も、勝海舟が同行しています。
そして、7月になって、禁門の変が起きます。
この時は、家茂は江戸におり、京都の幕府側の指揮者は一橋慶喜でした。慶喜は禁裏御守衛総督という役職についていました。
そして、京都守護職の松平容保が補佐していました。
松平容保は、禁門の変が起きた時、病床に伏していましたが、病気を押して参内し、御所の南側にある凝華洞に陣取り指揮を執りました。
御苑内に凝華洞跡が残されていて、説明板があります。
さて、禁門の変を起こした長州は朝敵となります。
元治元年(1864)7月 朝議により、長州藩追討が決定します。
これが禁裏守護総督の一橋慶喜に伝えられ、幕府は中国、四国、九州の21藩に出兵準備を伝えました。さらに8月に入って将軍みずから長州征討にあたることを声明し、征長総督と副総督を任命しました。
幕府は前尾張藩主徳川慶勝を総督、越前藩主松平茂昭を副総督、薩摩藩士西郷隆盛を参謀に任じ、広島に軍勢を集結させて長州へ進軍しました。
将軍家茂の進発が要請されていましたが、家茂の身体を心配する天璋院や和宮などの大奥や将軍の身の回りの世話をする「奥」が反対をしました。
総督についても、当初は、和歌山藩主徳川茂承が予定されていましたが、急遽徳川慶勝に変更になったものです。
一方、長州藩内部では、幕府への恭順を主張する保守派(俗論派)とそれに反対する討幕派(正義派)に藩論が分かれました。
その結果、「祖宗の安全」を主張する保守派(俗論派)が政権を握りました。
俗論派政権は、恭順の意を表すため、禁門の変の責任者である三家老の国司信濃、益田右衛門介、福原越後を切腹させしました。
そして、征長総督参謀の西郷隆盛は、藩主毛利敬親、世子毛利元徳父子の伏罪書の提出、三条実美ら五卿の筑前への移動、山口城の破却を撤兵の条件として伝えました。
長州藩はこの条件を受け入れました。
そして、12月27日、征長総督は、撤兵令を発しました。これにより、第一次長州征伐は完了ということとなりました。
この後、長州藩内では、高杉晋作の功山寺挙兵により、慶応元年2月はじめには正義派が藩政の実権を握りました。 これ以降、長州藩は開国倒幕に藩論を統一し、倒幕のため軍事力の強化に力をいれます。
これに対して、幕府は長州再征を考え、慶応元年4月、前尾張藩主徳川茂徳を征長先鋒総督に任命し、同年5月16日、家茂は長州征伐のため出馬しました。
第3回目の上洛は1回目と同じように陸路を取りました。
家茂は歩兵部隊が固める中軍に陣取りました。家茂の前後には家康以来の吉例の金扇馬印が立てられました。
家茂は、途中で道中の古戦場なども見ながらゆっくりと進みました。
閏5月11日は、名古屋城に入っています。また閏5月16日には彦根城に入っています。
閏5月22日に、駕籠の乗って、施薬院に入り、施薬院で衣冠に改めた後、小御所で孝明天皇に対面しました。
家茂は、24日に二条城を発ち、翌日夕方大坂城に入城しました。
金扇馬印は、本丸の大広間に置かれました。