今日は、その薩長同盟が結ばれた京都における薩摩藩邸と同志社大学について書いてみます。
薩長同盟の立役者はご存じのとおり、坂本龍馬ですが、
薩長同盟については、昨年の1月に書いていますので 薩長同盟 をご覧ください。
京都の薩摩藩邸は三つありました。
一つは、錦小路藩邸です。もう一つは、二本松藩邸です。さらに伏見藩邸です。
今回の京都旅行では、錦小路藩邸跡と二本松藩邸跡を見てきました。
錦小路藩邸は、現在の大丸の場所にありました。
大丸の西側の東洞院通り側にある搬出入口に通じる道路脇に石柱と説明板があります。
しかし、雑踏のなかにあるので見落としがちです。石柱が駐車している車の陰にあって私も見つからなくて、タクシーの運転手が見つけてくれました。
説明板には次のように書かれていました。
この場所に大名の屋敷が設けられたのは、16世紀末か17世紀初頭からと考えられる。
まず最初は山城守松平忠国の屋敷であったが、17世紀末の一時期は松平下総守の屋敷になり、その後18世紀初頭からは約160年間にわたり代々の薩摩守(島津氏)の京屋敷となっている。
江戸時代、薩摩藩邸は錦小路と東洞院通りに面していて、四条通りとは接していませんでした。今では四条通のほうがにぎやかですので、四条通りとは接していないことが意外な感じがします。
禁門の変の際には、薩摩藩兵は、この錦小路の藩邸から出軍しました。
しかし、錦小路の藩邸が禁門の変で起きた「どんどん焼け」により焼失した後は、二本松の藩邸が中心となりました。
二本松の藩邸は、現在では同志社大学になっております。
二本松藩邸跡の石柱は、同志社大学の西門前にあります。
説明板には次のように書かれています。
現同志社構内の敷地一帯は、幕末に薩摩(鹿児島)藩々邸があった所である。京都薩摩藩邸がはじめに置かれたのは中京区錦東洞院であるが、そこが手狭なため、文久2年(1862)にここに大きな藩邸を設けたのである。敷地の広さ、5,805坪(約1万9千平方メートル)、9棟の建物と多くの土蔵が立ちならんでいた。
ここでは重要なことが行われました。
薩長同盟の合意です。薩長同盟は、慶応2年正月21日に合意しましたが、その話し合いが、二本松の藩邸で行われたのでした。
薩長同盟の合意がどこで行われたかについては、小松帯刀の屋敷で行われたという説もあるようですが、「京都の歴史」には次のように書かれていて、二本松の藩邸で行われたといっています。
ついに木戸は12月27日、長州を発つことになった。
木戸は使者の黒田了介とともに、年あけて慶応2年1月7日に伏見に入り、西郷らの出迎えをうけながら、共に相国寺二本松の藩邸に入った。藩邸では小松帯刀・大久保利通ら数十人が木戸と面会したが、薩長の融和、取極め等々については、木戸が十数日滞在しても薩摩・長州両藩からなんの提案も行われず空しく時間を費やしていた。そして、木戸があきらめて帰国を決意しようとした1月20日、坂本龍馬が、馬関より二本松の藩邸に入ってきたのであった。
同志社大学と薩摩藩邸の関係について触れておきます。
同志社大学の土地は、明治維新の混乱の中で藩邸跡地を購入した山本覚馬から寄贈された土地です。
山本覚馬は元会津藩士で、幕末には会津藩の公用方として活躍しました。
山本覚馬の妹八重は、同志社大学の創始者新島襄と結婚しました。つまり新島襄の義兄になります。
来年の大河ドラマ「八重のさくら」は、この新島八重を主人公ととしたものです。
同志社大学には、重要文化財に指定されている建物が数多くありますが、右上写真は「彰栄館」です。
二本松藩邸跡の石柱のある西門を入ったところにあります。
左中段の二本松藩邸跡の石柱と説明板の写真の後方に写っている赤レンガの建物が「彰栄館」です。
赤が薩摩藩の錦小路藩邸跡の石柱です。
赤が薩摩藩二本松藩邸跡の石柱です。 青が同志社大学の彰栄館です。