慶応元年(1965)閏5月に、大坂城にはいった家茂は、9月15日、長州に進発するための勅許を得るために、大坂城を発ち、翌日二条城に入りました。
9月21日には、御所に参内し、孝明天皇より陣羽織と太刀が下賜され進発が許されました。
9月23日に大坂に一旦帰りましたが、英米仏蘭四カ国連合艦隊が大坂湾に入り、兵庫開港を強硬に迫っていたため、老中の阿部正外と松前崇広は独断で開港を決定し、その後朝廷に勅許を申請するということになりました。
これに対して、朝廷は、老中の阿部正外と松前崇広の両者の官位を召し上げ、国許に蟄居させるという沙汰書を下しました。
これに対して、家茂は、将軍辞職と条約の勅許を願う上表文を朝廷に提出させました。
それとともに、10月3日に江戸に帰ることを触れ出したため、大坂と京都は大混乱になりました。家茂一行は4日には伏見に到着しました。将軍辞職の公表に驚いた一橋慶喜、松平容保らが懸命に説得した結果、家茂は、将軍辞職と江戸への帰還を取りやめます。
この将軍辞職という強硬手段は、家茂の考えから発しているという説が最近は有力になってきています。
こうした家茂の強い姿勢にも押されて、朝廷は安政条約を勅許しました。
長州征伐の準備が進むなかで、慶応3年4月下旬、大坂城滞在中の家茂は胸痛をおこしました。
一旦快方に向かいましたが、5月中旬に同様の症状になり、6月には胃の不具合を発しました。その後は、両足が水ぶくれで腫れ、7月に入ると嘔吐の症状がひどくなりました。
明らかに脚気でした。
7月16日には、家茂の容態を心配した天璋院と和宮から漢方医が派遣されてきましたが、蘭方医を好む家茂は、漢方医の診察を許しませんでした。
17日に家茂と対面した慶喜の話として、手足が相当腫れている様子とのことが残されています。
18日には、松平春嶽が大坂に到着しましたが、もう対面できる状態ではなく、翌19日の黄昏過ぎに、障子越しに家茂の様子をうかがうのが精一杯でした。
そして、夜が明けた20日の午前7時ごろ家茂はその生涯を閉じました。
家茂の死はすぐには発表されず、喪は1か月後の8月20日に発せられることになりました。
家茂の遺骸は、長鯨丸で海路にて江戸に戻り、9月6日に浜御殿に到着しました。
「御上り場」(右写真)には、留守を守る老中・若年寄以下が平伏して将軍の遺骸を迎えました。
最後に、幕臣から見た家茂の印象について、久住信也氏著「幕末の将軍」に書かれていることから書いて、14代将軍家茂について終わりたいと思います。
まず「南紀徳川史」に載っている和歌山藩主徳川茂承(もちつぐ)の話から始めます。
茂承は、家茂が将軍になった後をついで和歌山藩主になった人物で、家茂が最も親しくしていた一人です。
第2次長州征伐の総督として出発するに先立って5月28日に茂承に節刀を授けるために、家茂はすでに発病していたのを押して対面し、饗宴を催しました。その際に、家茂は何事か胸中を明かそうとしましたが口ごもり涙ぐんだ景色に見えたそうです。それがいかにも国事を憂い、病を無念に思っているように茂承には思われたようです。そして、家臣にその時の茂承の心中を察するようにと話されたそうです。
次に老中であった板倉勝静がみた家茂の印象を勝静の家臣三島中洲が書き留めています。
それによれば、板倉勝静は、将軍家茂は真に国家を憂いていたと始終ほめていたそうです。
また、勝海舟は、家茂のことを語るときには、常に両目に涙をためたと言われているそうです。
このように幕臣から慕われていた家茂の死は、幕府運営にも大きな打撃を与えるのは当然として、それとともに、幕臣たちに大きなショックを与えました。
そのショックの大きさを、勝海舟が次のように書いています。
「城内寂として人無きが如し、余最も疑う、奥に入れば諸官充満一言を発せず、皆目を以て送る。惨憺悲風の景色殆ど気息絶えなんとす。」