京都旅行でどうしても行っておきたいところがありました。
それは、坂本龍馬と中岡慎太郎の墓地です。
しかし、今まで触れる機会がありませんでした。
そこで、今日は、坂本龍馬と中岡慎太郎の墓地について書いてみます。
坂本龍馬と中岡慎太郎の墓のあるのは京都霊山護国神社です。
京都霊山護国神社は幕末に倒れた志士が祀られています。
霊山護国神社は明治元年に明治天皇の意向を受けて、明治維新に進む道半ばで命をなくした志士の霊を祀るために建てられてのが始まりです。
社号は当初「霊山官祭招魂社」と言いましたが、昭和14年に、「京都霊山護国神社」と改称しました。
坂本龍馬と中岡慎太郎の墓は、神社の東側の山腹に建てられていました。
龍馬のお墓までは大変整備されていて、大変わかりやすい道でした。
右側が坂本龍馬、 左側が中岡慎太郎です。
坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃されたのが、慶応3年(1867)11月15日です。
11月15日は奇しくも龍馬の誕生日です。
そして、龍馬らの葬儀は11月17日の夜に行われました。
葬儀は近江屋で行われ、葬列には海援隊・陸援隊、土佐藩士、薩摩藩士らが参列し、霊山に埋葬されました。
霊山護国神社には、神社設立の趣旨から、坂本龍馬、中岡慎太郎以外に、「池田屋事件」、「禁門の変」などで亡くなった幕末の志士たちのお墓がたくさんあります。
池田屋事件でなくなった人たちの墓
宮部鼎三、松田重助、本山七郎(北添佶摩の変名)、広岡波秀、大高又次郎、古高俊太郎らのお墓があります。
禁門の変の死亡者の墓
左から2番めが来島又兵衛、3番目が久坂玄瑞、4番目が寺嶋忠三郎、5番目が入江九一、右端が有吉熊次郎です。
来島又兵衛以外全員松下村塾の塾生です。
なお左端は高杉晋作の墓で、最近建てられたものです。
高杉晋作は、禁門の変の際には京都出兵に反対しましたが、松下村塾の仲間近くに建てられたのでしょう。
木戸孝允のお墓
木戸孝允のお墓は墓所の最も高いところにあり、他よりは一段と大きなものでした。