正徳2年(1712)、江戸で感冒がはやりました。
家宣も、9月この感冒にかかりぐずぐすしていましたが、10月になると本格的に悪化し、10月14日ついに帰らぬ人となってしまいました。
享年51歳、将軍になって3年あまりでした。家宣は、増上寺に葬られました。家宣の文昭院殿霊廟は、戦前まで残っていましたが、戦災で焼失してしまい、現在は、徳川家墓所の中にお墓があります。
右写真は徳川家墓所の入り口にあたる鋳抜門ですが、もともとは、文昭院殿霊廟の宝塔前の「中門」であったものです。
その跡は、3歳2カ月のの家継が継ぐことになりました。
家宣は、なくなる前の9月27日に、新井白石を病床に呼んで、
自分の死後、尾張の吉通に後を譲り、家継が成人した後も、尾張殿に任せるべきか。
また、家継が成人するまで、尾張殿に西の丸にいて摂政してもらい、家継に不孝の事があった場合には、尾張殿に将軍を継いでもらうという事にすべきだろうか
と尋ねました。
こらに対して、白石は
御三家をはじめ一門、そして譜代相伝の家臣がいる限り、若君が後を継がれるのに何の心配もありません。
万一若君に不幸があった場合には、その時こそ御三家にお願いすればよいと思います。
と答えました。
そして、10月10日には、御三家を呼んで幼少の将軍を補佐するよう遺命して、14日になくなったのでした。右写真が家宣のお墓ですが、家宣のお墓は、徳川家墓所の一番奥にあります。隣は秀忠・絵のお墓です。
後を継いだのは、3歳と2カ月の家継でした。
家継は、宝永6年(1709)7月3日に生まれました。家宣の4男でした。丑年の子供は名前をかえるという言い伝えがあったため、世良田鍋松と名乗りました。
兄たちが幼くして亡くなってしまい、家宣の子供で生長したのは鍋松だけでした。
鍋松は、正徳3年(1713)3月26日元服し、名前を家継と改めました。
そして、4月2日に、徳大寺大納言公全、庭田前大納言重条が下向し将軍宣下が行われました。
家継の母は、お喜世の方(落飾後の月光院)です。
お喜世の方は、唯念寺(実はその塔頭林昌院)の住職勝田玄哲の末子でした。生長すると御殿奉公を希望し、京極甲斐守、戸沢上総介に奉公しました。
お喜世の方については、赤穂藩浅野家に奉公したという説もありますが、これは誤りだそうです。
お喜世は、宝永元年、甲府宰相家の桜田御殿に奉公に上がりました。
そして、家宣の心をとらえ、寵愛を受けるようになりました。
お喜世の方の父勝田玄哲が住職をしていたといわれる唯念寺は元浅草にあります。
真宗高田派のお寺で、天文15年(1546)品川で草創されました。その後、馬喰町への移転を経て、元浅草へ移転しました。
唯念寺で、勝田玄哲の事を御住職に伺うと、勝田玄哲は、唯念寺の塔頭の林昌院の住職でした。林昌院は境内内にあったのですが、現在は、林柔寺と名前を変え、葛飾に移転していますというお話でした。そこで、初めて、お喜世の方の父がいたお寺が林昌院だったことを知りました。
林柔寺は、現在は、葛飾区葛飾区東四つ木1丁目23-12にあります。「四つ木」駅から徒歩10分ほどで、渋江小学校の西側にあります。
林柔寺は、寛永7年(1630)僧善長が唯念寺の塔頭林昌軒として日本橋馬喰町に創建、明暦の大火の後下谷稲荷町へ移転し、さらに大正12年の関東大震災後、現在地へ移転したといいます。
林柔寺には7代将軍徳川家継の生母月光院の位牌が安置されているそうです。
赤印が林柔寺です。

