それは、江戸時代中期の宝暦年間の木曽川改修工事に携わり、多大な出費を招き多くの人材をなくしたとして責任を取り切腹した平田靭負(ひらたゆきえ)の墓です。幕末の人物ではありません。
しかし、岐阜県では小学校の副読本にも取り上げられている程、郷土にとって大切な人物です。
さらに杉本苑子が「孤愁の岸」の主人公として描いているということを御存じの方もいらしゃるでしょう。
そこで、平田靭負のお墓を紹介しておきます。
平田靭負(ひらたゆきえ)は、薩摩藩家老で宝暦治水の総奉行を務めました。宝暦治水とは、9代将軍家重の代の宝暦年間に幕府の命令により、宝暦4年(1754 )2月から薩摩藩が行った木曽川治水工事です。この工事は、木曾三川と呼ばれる木曽川・長良川・揖斐川を分流しようという難工事であるうえに幕府の妨害もあり、大勢の人が亡くなり費用も約40万両もかかりました。
この難工事が終わったのは宝暦5年5月22日でした。この日に幕府の検査がすべて終わったのです。そして、 平田靭負は工事完了報告書を国元に送った後、5月25日早朝、日の出を拝し、薩摩のある西に向かって薩摩藩の安泰を祈り切腹して果てたそうです。
辞世の句は
「住みなれし 里も今更 名残にて 立ちぞわずろう 美濃の大牧」でした。
切腹した平田靭負の遺骸は、伏見まで送られ、薩摩寺(大黒寺)に葬られました。平田靭負のお墓は本堂裏手あり、九烈士のお墓と向かいあい、西を向いてたてられていました。
薩摩の方を向いているのでしょう。
説明板によれば、平田靭負は地下4メートルの石棺に眠っているようです。
大黒寺の向かい側に、寺田屋のお女将お登勢のお墓のある松林院があります。山門は、閉じられていましたが、脇が空いていたので、境内に入らさせてもらいました。
山門からまっすぐ進んだ墓所のなかほどに池田屋の墓地がありました。池田屋お登勢の墓という案内板がありましたのですぐにわかりました。
池田屋の墓所の中の最も手前のお墓にお登勢が合祀されていました。
四名の男女の戒名が刻まれていましたが、「喜道院妙持信女」がお登勢のようです。
この墓所には平成6年に14代寺田屋伊助が建立した「南無阿弥陀仏」と刻まれた供養塔もありました。
寺田屋では、有馬新七らが殺害された部屋の奥が、寺田屋の女主人お登勢の部屋でした。(写真)中庭に面していて、写真手前が寺田屋事件のあった部屋です。
鴨居には、お登勢の写真がかけられていました。
さて、お登勢は6代伊助の妻でしたが、夫が若死にしたため、彼女が寺田屋の経営を取り仕切りました。
世話好きだったようで坂本龍馬を始め多くの尊攘派の志士を支援してきました。
なお、龍馬の妻となったお龍はお登勢の養女でした。

