家継の将軍就任まで書きましたが、家継将軍の時に、大奥の疑獄事件が起きました。
有名な絵島生島事件です。
今日は、その絵島生島事件について書いてみましょう。
絵島生島については、有名な事件のわりには詳細に書いた本が少ないように思います。
そこで、私が読んだ限りでは、比較的詳細に書いていた「町人の実力」に書いてあることを中心に書いていきます。
絵島生島事件は、正徳4年(1714)に起きました。
正月14日、7代将軍徳川家継生母月光院に仕えるお年寄り絵島は増上寺(右写真)の前将軍家宣の文昭院霊廟(左下写真)に代参しました。なお、家宣は正徳2年10月14日に亡くなっていますので、14日は月命日であったわけです。
本来は月光院が参詣するところ、月光院が参詣できないため、急遽絵島が代参することになりました。
絵島は、早速、呉服所筆頭の後藤縫殿助を通して木挽町の山村座2階桟敷を借りきらせました。
奥女中たちが代参後に芝居見物をすることは、公式には禁止されていましたが、綱吉の時代から公然の秘密として黙認されていました。
また、もう一人の年寄宮地は、寛永寺への代参を終えると、打ち合わせ通り山村座で合流しました。幕間には、座元の山村長太夫や狂言作者の中村清五郎が挨拶に顔をだし、主役の生島新五郎も接待に勤めました。
気分を良くした絵島一行はどんちゃん騒ぎで、観客のヒンシュクを買う始末です。
この時の話には、いろいろな話があります。
絵島がこぼしたお酒が1階にいた薩摩藩士にかかり大騒ぎになり同行した徒目付が薩摩藩士をなだめておさまったとか、どんちゃん騒ぎを同行した徒目付が注意し絵島が気分を害したという話もあります。
また、絵島と生島新五郎が座元の住まいで楽しんだという話もあります。(これは映画やテレビドラマの世界のようですが・・)
こうした乱痴気騒ぎの結果、当然ながら江戸城に帰り着く時間は遅くなりました。
江戸城の平川門(右写真)と御錠口の閉門時間は暮れ六つ。それは無事通過できたものの、七つ口は、名前の通り七つ(現在の午後4時ごろ)には閉まります。それは厳しく閉じられていましたそのことがあって20日後の2月2日に、絵島は宮路とともに上野寛永寺での謹慎を申し渡されます。そのほか、一緒に行った奥女中たちも同様な処分を受けます。
そして、評定所や江戸中町奉行坪内定鑑・大目付仙石久尚・目付稲生正武らによって関係者が徹底的に調べられました。
奥女中だけでなく、芝居小屋関係者も処罰を受け、中村清五郎や生島新五郎も入牢を申し付けられました。
絵島は、3月4日に評定所に呼び出され判決を言い渡されました。
評定所から絵島に下された判決は死一等を減じての遠島でした。
連座して、旗本であった絵島の兄の白井平右衛門は武士であるのにもかかわらず切腹ではなく斬首されました。また、弟の豊島平八郎は追放となりました。
大奥御殿医の奥山交竹院は遠島、その弟の水戸藩士奥山喜内は水戸藩に渡され死罪となりました。
絵島の遊び相手とみなされた生島新五郎は三宅島への遠島、山村座座元の五代目山村長太夫も伊豆大島への遠島となりました。
このほか、幕府呉服師の後藤縫殿助の手代清助、材木商栂屋善六も遠島とされ、合計で1500人もの人が罰せられたと言います。
山村座も座元の遠島に加えてお取り潰しということになりました。
また、この事件の取り調べの中で、芝居小屋にも風紀上問題があるということで、2階、3階を作ってはならないこと、桟敷にはすだれなどを垂らさないこと、桟敷から楽屋や座元の居宅などに間道を作ってはいけないこと、役者や座元などが客席に出て酒宴をすることななどの禁止が定められました。
絵島は、月光院の嘆願により、さらに罪一等を減じて高遠藩内藤清枚にお預けとなりました。 月光院の精一杯の働きかけでした。絵島は、33歳で高遠に流され、亡くなる61歳までずっと幽閉されていました。
絵島が幽閉された「絵島囲み屋敷」が伊那市高遠に復元されています。(左上写真)
大奥の腐敗は、家宣・家継の時代だけ目立つものではありませんでした。
しかし、なぜ絵島の時だけ、こんなに厳しい処分がなされたのでしょうか。
しかも、将軍の生母で大奥で絶大な権力をもっていた月光院付きのお年寄りである絵島がです。お年寄と言えば、表の老中に匹敵する重職ですので、通常であれば、握りつぶされてしまうのが普通ではないでしょうか。
これについては、その当時の権力抗争を背景として考えざるをえないと思います。
当時の大奥には、7代将軍家継の生母月光院を中心とする勢力と前将軍家宣の正室天英院を中心とする勢力とがありました。
月光院は将軍家継の生母であるので、月光院の方が優勢だったでしょう。
こうした情況の中で起きた絵島の乱痴気騒ぎは、大奥内では天英院側にとって、勢力を挽回するための絶好の機会だったでしょう。
また、表では、侍講新井白石や側用人の間部詮房が力を持っていました。
しかし、家宣の時代と違い幼少の家継が将軍であったため。権力から遠ざけられていた老中や役人たちの抵抗が強くなってきていた時期でもありました。
しかし、月光院や間部詮房を直接攻撃することはできませんでした。
そうした中で起きた、絵島の事件は、表の譜代名門出身の老中たちにとっても、間部詮房・新井白石コンビに対する痛打になると考えたのではないでしょうか。 そこで、詮議が非常に厳しくなったと思われます。
間部詮房・新井白石ともに、下手に絵島を弁護すると、矛先が自分たちに向かうことから、絵島擁護に動けなったのではないでしょうか。
さらに、新井白石自身は、大奥の腐敗を苦々しく見ていたという説もあります。
そのため、家継体制継続をめざすという点では月光院とめざすものが同じだったでしょうが、絵島の行状を弁護する気は起きなかったのではないでしょうか。
白石の「折りたく柴の記」には、絵島事件に触れた箇所がないことが、白石の気持ちをあらわしているかもしれません。
このように考えると、絵島は、江戸城内の大奥や表の政治闘争の犠牲になったといえるかもしれません。

