吉宗は、御三家の紀州藩第2代藩主徳川光貞の四男として紀州和歌山で生まれました。ただし次男は13才で亡くなっています。
幼名は源六といいました。生母はおゆりの方といい、巨勢六左衛門の娘と言われていますが、一説には巡礼の娘だったとも言います。
いずれにしても、母の出自は身分の低いものだったようです。元禄10年、吉宗が14歳の時に、5代将軍綱吉が江戸の紀州藩邸を訪れました。
その際、父光貞が長男綱教・3男頼職を伴って謁見しましたが、吉宗(当時は頼方)だけは次の間に控えていました。
これを見た老中の大久保忠朝が「光貞殿は子福物で、他にもまだお子さまがいらっしゃいます」と将軍綱吉に述べました。綱吉もその意味に気が付いて、吉宗を呼び寄せ、兄頼職(よりもと)と共に領地を与えたという話です。
このとき、越前(福井)の国丹生郡3万石を賜りました。
吉宗が綱吉に初めて謁見した御殿は、現在赤坂プリンスホテルが建っている場所にありました。
江戸時代、紀州藩は、上屋敷が麹町、中屋敷が赤坂、下屋敷が現在の芝離宮公園等にありました。
紀州藩の上屋敷は、明暦の大火で、竹橋にあった屋敷が焼失した後、幕府の江戸改造計画により、御三家の屋敷が江戸城内から内堀の外に移転させる方針により、麹町に拝領したものです。この屋敷は最初御殿等が建てられ上屋敷としての役割を果たしていました。
吉宗が初めて綱吉に謁見したのは、綱吉が紀州藩邸に御成になった時ですが、この際の御成御殿は麹町邸に建てられました。
しかし、江戸期後半には、麹町邸が焼失したため、上屋敷の機能は赤坂邸に移りました。
明治以降は、麹町艇は北白川宮邸となり 大正13年に李王家の屋敷となりました。
そして、戦後はプリンスホテルが購入し、赤坂プリンスホテル(正式にはグランドプリンスホテル赤坂)となりました。
その赤坂プリンスホテルも現在は解体中です。西武ホールディングスが再開発中だからです。平成28年にはホテルオフィス棟と住宅棟が建つ予定です。
右上写真は、弁慶橋から撮った赤坂プリンスですが、もう解体工事が始まっていました。この姿もまもなく消える運命にあります。
左上写真の説明板は、弁慶橋の北側たもとにあります。
さて、紀州藩では、宝永2年(1705)5月に長兄の綱教(紀州藩3代藩主)が死去し、頼職が跡を継ぎました。
長兄綱教には綱吉の一人娘鶴姫が嫁いでいました。そのため、綱教は、一時期、子供のいない綱吉の有力な後継候補者とされていました。
綱教が亡くなった同年のうちに父光貞(8月)、そして4代藩主となったばかり頼職までが9月になくなったため、吉宗が22歳で紀州徳川家を相続し第5代藩主に就任しました。
藩主に就任する際、将軍綱吉から偏諱を賜り、吉宗と改名しました。
吉宗が藩主に就任したころ、紀州藩は財政難に陥っていました。
そこで、吉宗は、藩政改革に着手しました。緊縮政策と農政改革を実施し、成果を発揮し、その盛名は江戸にも届くようになりました。

