8歳ですので、継嗣などいません。そこで、後見人を決める必要がありました。
6代将軍家宣は、自分の病状が悪化した際に、後継について新井白石に諮問していますが、この際の意中の人物は、尾張藩の徳川吉通でした。
しかし、家宣が候補者と考えていた吉通は、家宣がなくなった翌年になくなっていて、さらにその跡を継いだ五郎太もなくなっていて、当時は、吉通の異母弟徳川継友が尾張藩6代藩主となっていました。
それに対して、紀州藩と水戸藩は、徳川吉宗と徳川綱条(つなえだ)が健在でした。しかも吉宗と綱条は曾孫で、継友は玄孫で、家康に一代近い吉宗と綱条のうち、兄の系統である紀州の吉宗が後見人となりました。
老中土屋政直、側用人間部詮房からその旨を伝えられた吉宗は「家柄からいえば尾張殿、年齢から言えば水戸殿」と辞退したといいます。
しかし、家宣の正室天英院が奥に呼んで直接説得した結果、吉宗が承諾しました。
そして、後見人を承諾したその晩に家継が亡くなってしまったため、吉宗は8代将軍となりました。
家継は、父家宣が眠る増上寺に埋葬されました。家継の霊廟である有章院霊廟は大部分が東京大空襲で焼失しましたが、有章院霊廟二天門が東京プリンスの駐車場に奇跡的に残っています。(左上写真)
なお、家宣・家継との血縁の近さから言えば、家宣の弟松平清武がいました。
しかし、松平清武は、家臣の家を継いでいるので候補者からはずされたと言われています。
また、尾張徳川家では、藩内の対立がありは藩内がまとまっていなかったという事情もあったようです。
こうしたことから、吉宗が将軍となった大きな要因は、吉宗が大奥や幕閣から多くの支持を得ていたことによるようです。
ですから、徳川実記に次のように書かれているように、のんびりと赤坂邸で弓をひいていられたのだと思います。「正徳6年(1716)4月の半より、家継御心地常ならずおはしましけるに、30日の夕つかたに御病重くわたらせ給うよしにて、三家のかたかがたいそぎ参るべしと仰せつかわされしに、吉宗にはこの時赤坂の邸中岡山というところにて弓を射ておはしけるにとみの召しあれば いそぎ出仕給う」
将軍後見人が決まろうという時に、吉宗がのんびり弓を弾いていた紀州藩の赤坂邸は、現在、東宮御所などがある赤坂御用地と迎賓館となっています。
現在の迎賓館の建物は、元々は東宮御所として明治42年に建設されたものです。
設計者は重要文化財の東京国立博物館表慶館などを設計した片山東熊です。
大正天皇が即位した後は赤坂離宮と呼ばれるようになりました。
戦後は、赤坂離宮の敷地や建物が皇室から国に移管され、国立国会図書館や東京オリンピック組織委員会など様々に使用された歴史があります。
その後、旧赤坂離宮を改修してこれを迎賓施設とすることとなり、昭和49年に現在の迎賓館が完成しました。
迎賓館は平成21年に国宝に指定されています。迎賓館では、平成24年11月1日(木)~3日(祝・土)の3日間、迎賓館前庭の公開を予定しています。
申込み不要で年齢制限もありませんので、行かれたらどうでしょうか。
ところで、紀州藩の上屋敷は、麹町藩邸か赤坂藩邸かということが、一時期、江戸検1級仲間で話題になったことがあります。
幕末の嘉永3年尾張屋の切絵図を見ると、麹町藩邸には黒角印つまり中屋敷のマークが付けられています。
こうしたこともあって、上屋敷は赤坂藩邸であるとも考えられます。
しかし、3代藩主綱教の正室の鶴姫の御守殿が麹町藩邸に建築されていることや元禄10年の綱吉御成の際の御成御殿が麹町藩邸に建築されていることから、紀州藩の上屋敷は本来は麹町藩邸でしょう。
しかしながら、文政6年(1823)の麹町藩邸焼失後は、御殿が麹町藩邸に建築されなかったため、上屋敷の機能は、赤坂藩邸に移ったと思われます。

