吉宗が、将軍に就任すると、前政権で側近政治を行っていた新井白石や間部詮房は失脚して政治活動から姿を消していきます。
吉宗も将軍就任に際して、元紀州藩士を起用しますが、5代将軍綱吉や6代将軍家宣の就任により、それぞれ館林藩や甲府藩が廃止され、それぞれの藩士が幕臣に身分を替えたのとの異なり、紀州藩士から幕臣に身分がかわったのは少数に止まりました。
そもそも、紀州藩支藩の西條藩藩主徳川宗直が跡を継ぎ6代藩主となり、紀州藩が存続しました事情もありますが、紀州藩から江戸城に入った人が少ないのは、譜代大名の意向に配慮したためです。
そして、5代、6代、7代と柳沢吉保や間部詮房などによる側近政治が、老中を筆頭とする譜代大名に非常に不人気であることに配慮し、紀州から連れてきた加納久通(かのう ひさみち)と有馬氏倫(ありま うじのり)を、呼称も側用人ではなくため、御側御用取次と変えたうえで任命し、知行も1000石に留めました。
このように、譜代大名に吉宗が配慮したのは、8代将軍になれたのは譜代大名の推挙によるという事実を吉宗が十分認識していたことによるものです。
しかし、吉宗は譜代大名に気兼ねするあまり、家柄に基づく人事配置をしたわけではありませんでした。
優秀な人材の登用も図っています。代表的な人事が、大岡越前守忠相の町奉行への登用です。
大岡越前守忠相は吉宗が将軍に就任した時は普請奉行でした。
その大岡越前守忠相を南町奉行に抜擢しました。
時に大岡忠相は41歳、当時の町奉行は60歳程度が普通でした。絵島生島事件を調べた坪内定鑑(つぼうち さだかね)が65歳でしたので、若手抜擢ということになります。
大岡忠相は、延宝5年(1677)2700石の旗本大岡忠高の四男として生まれました。
貞享3年(1686)、同族の1920石の旗本大岡忠真の養子となりました。
将軍綱吉の時代の元禄15年(1702)には書院番となり、宝永元年(1704年)には徒頭、宝永4年(1707年)には御使番となり、宝永5年(1708年)には32歳で目付に就任と順調に昇進をしていきます。
この順調な昇進は、大岡忠相がもともと優秀であったことを表しています。
そして、正徳2年(1712)正月に遠国奉行のひとつである山田奉行に就任しました。
この山田奉行の時代に、山田奉行支配の山田領と紀州徳川家の松坂領との境界を巡る訴訟では、御三家の紀州藩に気兼ねせず公正に裁き、松坂領の方の非を認めさせたと言われています。
これを吉宗が覚えていて、大岡忠相を抜擢したという逸話が残されています。
しかし、この話は、後世に作られた話だろうというのが最近では有力です。
さて、大岡忠相が就任した南町奉行所は、有楽町駅前の有楽町イトシア(右最上段写真)辺りにありました。
南町奉行所は宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内移転してそれ以降数寄屋橋門内にありました。
大岡越前守忠相も、ここで職務を執っていました。奉行所というのは役宅と呼ばれ、役所部分と自宅部分が一つになっているため、大岡越前守忠相も、ここで生活しながら町奉行の仕事をしていました。
有楽町イトシアは平成19年に開業した新しい再開発ビルです。
ここは、江戸時代に南町奉行所があった場所ですので、再開発に伴って埋蔵文化財の発掘調査が実施されました。
発掘調査では、江戸時代はじめの大名屋敷跡や南町奉行所跡が発見されたそうです。
南町奉行所の表門や裁判を執行する役所部分から、石組の溝や井戸、土蔵の跡などが発見され、書物所の穴倉(地下室)から「大岡越前守様御屋敷」と書かれた札など貴重な資料が出土したそうです。
そうした説明をしたのが下写真の説明板です。
左上写真が穴倉ですが、結構大きいので驚きました。
また、奉行所の石組材を利用した石のベンチも地下1階に作られています。(右上写真)
有楽町イトシアといっても意外と知られていないかもしれませんので、下に地図を載せておきます。
赤印が有楽町イトシアで、メインテナントは有楽町丸井です。
有楽町の駅前で、すぐわかります。上の展示物は、地下1階に展示されえています。