町火消制度は、享保3年(1718)に創設されました。
江戸は非常の火事の多い町でした。
そこで、幕府は火消制度については常に留意していました。
しかしながら、江戸時代前半は、江戸城を火から守るという目的が優先したため武士による武家火消中心の組織でした。
武家火消には、大名火消と定火消がありました。
大名火消には、寛永寺・増上寺・湯島聖堂、浅草御蔵・猿江町竹蔵など幕府にとって重要な場所の消防を担当させた所々火消、江戸の町を方角などで地域割りして消防を担当させた方角火消がありました。
さらに、明暦の大火後は、旗本による定火消が創設されました。この定火消は、火消屋敷に火消人足を常駐させ、常時、防火消火にあたらせました。
10組だった期間が長いため、俗に「十人火消」とも呼ばれました。
これらの大名火消と定火消は、武家屋敷中心の消火活動を行ったため、どうしても町屋の消火は手薄になりました。
そこで、町人により町の火消を担当する町火消が、大岡越前守忠相により、享保3年(1718)に創設されました。
そして、享保5年(1720)に、隅田川から西を担当する「いろは四十八組」、東側の本所深川を担当する16組の町火消が設けられました。
「いろは四十八組」は、隅田川を境とした西側の区域に組織されたものですが、「へ」「ら」「ひ」「ん」の四文字組は「百」「千」「万」「本」に変えられました。
「へ」は屁に、「ひ」は火に通じ、「ら」は隠語、「ん」は語呂が悪いためです。
各組には、組を象徴する纏(まとい)が作られました。これは、戦国時代の馬印に由来があるそうです。
写真は、「い組」の纏で、上部の球が芥子(けし)を意味し、下部の立方体が升を意味して、二つで「消します」となります。これは大岡越前守が命名したと言われています。
享保15年(1730)には、いろは四十八組を一番組から十番組まで10の大組にまとめて、より多くの火消人足を火事場に集められるように改編しました。
東京メトロ丸の内線の「四谷三丁目」駅の上に「消防博物館」があります。(右最上段写真)
この中では、江戸時代の消火について展示されていて、非常におもしろい博物館です。
江戸時代中期には竜吐水(りゅうどすい)と呼ばれた手押ポンプが考案されましたが、水を大量に放水することが不可能で、効果は限定的なものでした。(右写真)
江戸は水が豊富でなかったため、江戸時代通じて、消火方法は、火事場周辺の建物を破壊して、延焼を防ぐ破壊消防という方法でした。
そのため、最初のうちは商家の店員などで組織されていた町火消ですが、次第に建物に詳しい鳶職人中心の組織となりました。
下の写真が、町火消が使った消火道具が展示されているコーナーの写真ですが、写真上部にある長い棒が「大刺股」です。これで家屋を押し倒して延焼するのを防ぎました。
このように、消火のための道具も、建物を壊す道具が中心でした。