大岡越前守忠相は、名奉行とされています。
この名奉行というのは名裁判官という意味です。
この評価を決定づけているのが「大岡政談」だと思います。
「大岡政談」は、「実母継母の子争い」「石地蔵吟味の事」「白子屋阿熊(おくま)一件」「三方一両損」「徳川天一坊」「直助権兵衛」などの裁判話でを構成されていて、すべて、大岡越前守忠相が裁いたとされています。
しかし、実際に、大岡越前守忠相が裁いた事件は、「白子屋阿熊(おくま)一件」だけです。他の事件は、中国や日本の古典を下敷きにして作られた話や他の奉行が裁いた事件を大岡越前守忠相が裁いたように描いているのです。
ちなみに「実母継母の子争い」は中国の裁判実例集である「棠陰比事(とういんひじ)」に載っている話で、「石地蔵吟味の事」は、中国の明代の裁判小説「包公案」にその原型と見られる話がのっているそうです。
また、『天一坊一件』は勘定奉行稲生下野守が裁いた事件ですし、「直助権兵衛」は北町奉行中山出雲守が裁いた事件です。
「白子屋阿熊(おくま)一件」だけが、実際に大岡忠相が裁いた事件です。「白子屋阿熊(おくま)一件」は、享保11年(1726)日本橋新材木町の材木商白子屋庄三郎の娘お熊と手代の忠七が密通し、養子の又四郎を毒殺しようとし、母の常も下女きくに又四郎を襲わせた事件で、容疑者が密通、毒殺未遂、殺人未遂の罪で江戸市中引き回しの上死罪獄門となった事件です。
この話をもとに城木屋お駒と名前を変えて作られた浄瑠璃が「恋娘昔八丈」で、さらに、明治になって、河竹黙阿弥によって「梅雨小袖昔八丈」と題された歌舞伎となっています。
この白子屋阿熊のお墓が、芝増上寺の塔頭常照院にあります。
最上段が常照院山門で、中写真がお熊の供養墓、下が城木屋お駒の碑です。
より詳しくは 以前書いた「常照院(芝散歩 大江戸散歩)」をお読みください。
大岡政談では、前述のように多くの事件すべてを大岡越前守忠相が裁いたように描かれていますが、なぜこうした大岡政談ができたかという疑問が起こります。一つには、大岡越前守忠相が司法改革をして、庶民の尊敬を受けたからだと考えれられています。
吉宗は将軍になると、すぐに裁判の運営改革に着手しました。
大岡忠相を町奉行に抜擢したのもその表れです。
大岡越前守忠相はその期待に応え、いろいろな司法改革に取り組みました。
正徳の時代には、評定所での裁判は、役人のサボタージュで、なかなか進みませんでしたが、それを改めて、審理の促進を図りました
また、連座制の廃止、追放刑の制限、拷問の制限、時効の制度の導入など刑罰の緩和が行われました。
こうした裁判に直接関係する事柄の改革を大岡忠相が実施して、庶民の喝さいをあび、名裁判官にされたと考えられています。
この理由とともに名行政官であったことが名裁判官にしたと大石慎三郎学習院大学名誉教授は岩波新書「大岡越前守忠相」の中で書いています。そこを書き抜くと次のように書かれています。
「本来政策官僚として評価されるべき大岡忠相が、なぜ名裁判官として「大岡政談」に定着したのだろうか。この理由はすごく単純であるように考えられる。政策官僚の評価はじつはたいへんむずかしいのであるが、庶民はむすかしい政策論争はむこうにおしやって、ただ庶民のために誠意をもって働いてくれたかどうかだけに観点をしぼり、それを名裁判という単純明快でかつ爽快な話に置き換えて大岡忠相を賛美したのであろう」と
赤印が常照院です。 増上寺の三門の手前にあります。

