【山岡鉄舟旧居跡】
幕末から明治にかけて活躍した剣術家の山岡鉄舟の生家小野家が竪川中学校の正門あたりにありました。
説明板は右下写真のように堅川中学の正門脇に建てられています。
山岡鉄舟の山岡姓は、養子に行った先の姓で、生家は小野姓でした。
山岡鉄舟は天保7年(1836)6月10日、御蔵奉行だった旗本小野朝右衞門高福(たかとみ)の五男として生まれ鉄太郎と名付けられました。母は塚原磯といいますが、小野朝右衛門が最初の妻と死別したため、塚原磯を後妻として娶りました。鉄太郎は朝右衛門と磯の間にできた初めての子供でした。
塚原磯は鹿島神宮神職の塚原石見の二女で、先祖に塚原卜伝がいます。
そうした母親の影響からかもしれませんが、山岡鉄舟は、幼いころから、剣術を学びました。
数え年9歳で久須美閑適斉に真影流を学びはじめました。
そして、弘化2年(1845)、父が飛騨郡代となったため、小さい頃は飛騨高山で過ごしました。高山では、父が招いた井上八郎清虎から北辰一刀流を学びました。井上八郎清虎は、北辰一刀流の千葉周作の門人で、海保帆平(はんぺい)とともに玄武館の龍虎といわれた剣豪でした。
そして、嘉永5年(1852)、数え年17歳の時に父が死んだため、江戸へ帰り、師匠の井上清虎の紹介で千葉周作に剣術を学びました。
また同じころ、槍の名人と言われた山岡静山(紀一郎)に槍を学びました。しかし、山岡静山が27歳で急死して跡継ぎがいなくなったため、静山の弟精一(のちの高橋泥舟)に望まれて、静山の妹英子(ふさこ)と結婚し、山岡姓を名乗ることになりました。
鉄舟の義兄ともなった槍の名手高橋泥舟は、母方の旗本高橋家に養子に入っていたため、山岡家を継ぐことができなかったようです。そのため、静山の弟子の中で傑出していた小野鉄太郎に依頼したようです。
勝海舟山岡鉄舟と高橋泥舟はの三人は「幕末の三舟」として知られていますが、山岡鉄舟と高橋泥舟は義兄弟だったわけです。
【津軽家上屋敷跡】
現在のほくさい通りと総武線の間にある緑町公園あたりは、江戸時代、弘前藩津軽家上屋敷がありました。
左下写真は緑町公園の中に建てられている説明用高札です。
切絵図には、南割下水から南に大きな屋敷がありました。
現在のほくさい通りから、南は、現在の京葉道路でまでで、約8000坪程あったと言います。実は、本所に上屋敷のある大名というのはあまり多くありません。
幕末の切絵図を見ても弘前藩津軽越中守、平戸新田藩松浦豊後守、陸奥黒石藩津軽式部太夫の3家しかありません。
しかも、大藩で本所に上屋敷があるのは弘前藩津軽家だけです。
津軽家が本所への屋敷替えを命じられたのは元禄元年8月20日のことです。神田にある上屋敷、浅草にある中屋敷を本所に移すように命令を受けました。
なぜ津軽家の上屋敷が本所にあるのだろうと疑問に思います。これには次のような事情があったようです。
下野国烏山藩の御家騒動が起き幕府の裁定により烏山藩主の那須家が改易とされました。烏山藩主那須資徳が津軽信政の子供であったため、那須家改易処分に関係して津軽藩主津軽信政が閉門処分を受け、さらに追加罰として屋敷替えが行われたと江戸っ子には受け止められました。
本所七不思議のひとつに「津軽の太鼓」というのがありあます。
昔から、大名屋敷の火の見櫓は、板木(ばんぎ、版木とも書く)の連打で火事を知らせると決まっていました。
それなのに、本所の津軽越中守の屋敷だけは、火の見櫓に「太鼓」がぶらさがっていて、火事のときは太鼓が鳴らされました。
なぜ、津軽屋敷だけが「太鼓を許されているのか」と不思議がられたため、本所七不思議の一つに数えられました。
これは、元禄13年3月に出たお触れにより、本所に屋敷のある大名は太鼓を打って火事を知らせてもよいようになったので、津軽家では太鼓が打てるようになったようです。
赤印が、山岡鉄舟旧居跡です。 青印が、津軽家上屋敷跡の緑町公園です。
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