大岡政談で名高い大岡越前守忠相は、裁判だけを担当していたわけではありません。
町奉行は、現在でいえば都知事と警視総監と東京地裁所長を合わせた職務を担当していました。
そのため民政でも活躍します。
その功績の一つが小石川養生所ですが、小石川養生所は、将軍吉宗と大岡越前守忠相のコンビで実施した施策です。
小石川養生所は目安箱への提言をもとに実施されたものです。
【目安箱】
「目安」 とは訴状のことで、「目安箱」は幕府に対する要望や不満を、直接将軍に 直訴させるために、享保6年(1721)に設置されました。
目安箱には鍵が かけられ、毎月三度、江戸城辰ノ口の評定所の前に置かれました。より詳しく書くと、箱は鍵が掛けられた状態で評定所前に毎月2日、11日、21日の月3回設置されました。
目安箱の大きさは、約75センチ立方、上には銅板がはられ約センチ四方の穴があけてあり、前部に鍵がかけられていました。
目安箱は側近により吉宗の前まで運ばれ、投書は将軍自らが開封しました。
目安箱は、後述するように大変効果があり、享保12年からは京都・大坂に、元文元年(1736)からは駿府・甲府にも設けられました。
この制度は、吉宗が紀州藩主の時に和歌山城の門外に「箱」を置いて意見を求めたことがルーツといわれています。
目安箱が置かれた評定所は、現在は、三菱地所が建設した「iiyo!!(イーヨ!!)」となっています。(右写真)
【小石川養生所】
浪人山下幸内(こうない)が吉宗の緊縮政策を批判した上書を投じて評判になったのをはじめ、この目安箱への提案から多くの施策が実現しています。
その中で有名なのが「小石川養生所」の開設です。投書したのは、小石川伝通院前で 町医者を開業していた小川笙船(しょうせん)でした。
投書を受けて、養生所が享保7年(1722年)12月に小石川薬園内に開設されました。
小石川御薬園は、現在は小石川植物園となっています。(右写真が小石川植物園の正門です。)
養生所の収容人数は40名で、診療費、食費などはすべて無料で、衣類も支 給されました。
そのため利用者は年を追って増 え、開設当初は40名だった定員も、翌享保8年100人、享保14年150人と増員されました。その後享保18年からは117名とされ以後幕末まで続きました。
入所手続きは、まず願い人から家主、または親類・店請人(たなうけにん)・相店(あいだな)の者から町奉行所に願い出て、それから名主または月行事(がちぎょうじ)の印鑑をもらって養生所に願い出ました。しかし、享保8年7月からは町奉行所に願い出るのは不要とし。直接養生所に願い出るように改めました。養生所は、町奉行支配に属し、与力が2名養生所見廻り、同心が6名下役として担当しました。
医師は本道(内科)・外科・眼科に分かれ、総計で9名のち5名で担当しました。小川笙船の子孫が代々肝煎を務めました。
はじめは寄合医師・小普請医師などの幕府医師の家柄の者が治療にあたっていましたが、天保14年(1843)からはすべて町医師が担当しました。
小石川養生所が開設されたのは小石川御薬園の中でした。
御薬園というのは、薬草を育てる目的で、寛永15年(1638)に麻布と大塚に設置されましたが、やがて大塚の薬園は護国寺建立のため廃止されて麻布に移設されました。小石川植物園のある場所は、5代将軍綱吉が将軍就任以前の館林藩主時代の屋敷で、もと白山神社があった場所であるため白山御殿と言われ、また小石川御殿とも言われていました。
綱吉が将軍に就任した後はここが御薬園となりました。
貞享元年(1684)に、麻布の薬園を小石川御殿跡に移設したものが小石川御薬園です。
小石川御薬園は明治以後、東京大学に移管され、現在は東京大学付属小石川植物園となっています。
小石川植物園には、養生所の名残りを示すものとして井戸が残されています。(左中段写真は全体、右下段写真は井戸部分)
この井戸水は関東大震災の際に避難した人々の飲料水として使用されたそうです。

