享保の改革というと大岡越前守忠相がすぐ出てきますが、水野忠之も吉宗に信頼され重要な役割を果たした人物です。また、それだけでなく、赤穂浪士の関係者でもあります。
8代将軍吉宗は、老中を中心とした譜代大名の支持により、将軍に就任しました。
そのため、吉宗が将軍に就任した時の老中たちに相当気を遣いました。
吉宗が将軍に就任した時の老中は、土屋政直、井上正岑、阿部正喬、久世重之、戸田忠真の5人でした。吉宗はこれらのいわゆる「援立の臣」を大事にして、老中の入れ替えは行いませんでした。
そのため、老中たちは、綱吉・家宣時代と異なり、それなりにモノが言える力関係にありました。
しかし、吉宗は、徐々に自分の意思を通すようになってきました。
吉宗が将軍になってしばらくして、5人の老中たちに試問しました。
土屋政直は3問中2問答えることができましたが、井上正岑は一年の年貢収納高を答えられなくて、久世重之は江戸城の櫓の数を答えられず、阿部正喬、戸田忠真も吉宗の質問に答えられませんでした。
これが老中たちが吉宗に頭の上がらなくなる始まりだったようです。
しかし、吉宗は、このような老中たちの入れ替えを急いで行うことはしませんでした。
この中からまず、享保2年(1717)に阿部正喬が辞任しました。その直後に吉宗が初めて任命した老中が水野忠之です。ついで翌享保3年(1718)に土屋政直が辞任します。そして享保5年(1720)に久世重之が、享保7年(1722)に井上正岑が死去します。
それでも、吉宗は新しい老中を任命しませんでした。
この時点での老中は、水野忠之と戸田忠真でした。
しかし、この時は、まだ戸田忠真が現職の老中として残っていましたが、既に72歳の高齢であり、消極的な性格であったといいますから、吉宗としては特に遠慮する必要はありませんでした。
そこで、享保7年(1722)5月15日に、水野忠之を勝手掛老中に任命します。
吉宗政権における享保の改革の中心人物となった水野忠之は、三河国岡崎藩5万石の藩主です。右最上段写真は岡崎城の写真です。
水野氏は、徳川家康の母於大の実家で、譜代の名門です。
さらに、家康誕生の地岡崎を知行しているわけですから、譜代大名は、水野忠之の就任に文句は言えなかったと思います。岡崎藩主としての水野家は、水野忠善から始まります。水野忠善は三河吉田藩(現在の豊橋)藩主でしたが、かねてより岡崎藩主を希望していて、正保2年に転封となりました。
そのお礼に奉納した石鳥居が滝山東照宮に現存しています。左上写真は、水野忠善が奉納した石鳥居です。
水野忠之は、その忠善の孫になります。
水野忠之が勝手掛老中に就任すると、彼を中心として、改革政治が行われました。
まず、就任早々の享保7年7月3日に、上米(あげまい)の制が導入されます。
これは1万石について100石の割合で米を幕府に上納させるということです。
その代わり、参勤交代を緩め、江戸滞在を半年ずつ免除するという政策でした。
この他、水野忠之は、年貢増徴や新田開発などの増収政策を積極的にすすめ、幕府を財政危機の窮地から救いました。しかし、その一方で、社会全体が不況となり、旗本・御家人が貧窮に陥ることとなりました。そのため、人々の非難が水野忠之に集中することとなりました。
当時流行した落書に、「無理で人をこまらせる物、生酔と水野和泉守(水野忠之のこと)」と詠まれるほどでした。
水野忠之は享保15年に老中を辞任しましたが、人々の非難の責任をとらされて罷免されたという説もあります。
水野忠之は、赤穂浪士にも大変関係しています。
元禄15年(1702)12月14日に赤穂浪士が吉良邸に討ち入り吉良上野介の首をあげた後、幕府は赤穂浪士46人を大名4家に預けました。その際に、水野家は、奥田貞右衛門行高、茅野和助、神崎与五郎、間 重次郎、間瀬孫九郎、三村次郎左衛門、村松三太夫、矢頭右衛門七、横川勘平の9名の預かりを命じられ、三田の中屋敷で預かりました。
この時の藩主が水野忠之でした。33歳の時でした。
三田の中屋敷は、現在の田町駅と慶応大学の中間あたりにあったようで、「水野監物邸跡」と書かれた港区の案内板が、慶応仲通り(東京都港区芝5-20-20)にあります。(右上写真と左写真参照)
JR田町駅から慶応大学正門に向かう小路の田町駅寄りの路地奥です。
大石良雄らをあずかった細川家とともに水野家も赤穂浪士をよくもてなしました。
そのため、「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」と狂歌に歌われました。
これは細川家と水野家が浪士たちを厚遇し、毛利家と松平家が冷遇したことを表したものです。
なお、天保の改革を行った水野忠邦は、忠之の6代後の子孫です。

