青木昆陽が飢饉対策としてサツマイモの普及に努力したことは有名な話です。
青木昆陽の活躍も、将軍吉宗と大岡越前守忠相のバックアップによります。
青木昆陽は、通称は文蔵といい、昆陽は号です。
日本橋の商家の出と言われていますが、異説もあるようです。
京都で儒者の伊藤東涯に学んだ後、江戸に戻りました。そして、南町奉行所与力加藤枝直(えなお)と知り合いになり(枝直の屋敷内に住んでいたと言われます)、加藤枝直の紹介により大岡越前守忠相に取り立てられました。
そして、享保20年(1735)、「蕃薯(ばんしょ)考」を書いて将軍吉宗に飢饉対策用に甘藷(サツマイモ)の栽培を進言しました。、徳川吉宗はこの献言を採用し、小石川御薬園で試作させました。
小石川植物園には「甘藷試作跡碑」があります。大正10年に建てられたものです。(右写真)
さらに、下総国馬加(まくわり)村(現在の千葉市花見川区幕張)、上総(かずさ)国不動堂村(現在の千葉県九十九里町不動堂)にて試作し、甘藷の普及に努力しました。
その後全国に甘藷の栽培が普及して、天明や天保の大飢饉にも餓死するものがいなかったといいます。彼は、その功績によって「甘藷(かんしょ)先生」とよばれるようになりました。また、青木昆陽は、吉宗の命で野呂元丈(のろげんじょう)とともにオランダ通詞からオランダ語を学び『和蘭話訳』『和蘭文字略考』を著しました。
オランダ語研究の端緒となり、彼の門人には前野良沢がいます。そして、前野良沢と杉田玄白による『解体新書』の翻訳につながっています。
青木昆陽のお墓は、目黒のお不動様(瀧泉寺)にあります。
これは、生前に遺言として、「死後は目黒に葬る」ように言い残したためだそうです。
墓碑銘に「甘藷先生墓」と刻まれています。(左写真参照)
青木昆陽のお墓は、目黒のお不動様の本堂からは少し離れた所にあります。本堂の脇を通って、本堂の裏に出て東に少し行った墓所の一画にあります。また、目黒の不動様には、甘藷組合が明治44年に建てた「昆陽青木先生之碑」や芝・麻布の甘藷組合が建てた「甘藷講碑」があります。
本堂の下にある独鈷の滝の西側に建てられています。(右写真参照)
毎年10月28日の目黒不動の緑日には、青木昆陽の遺徳を偲んで「甘藷まつり」が催されているそうです。
赤印が青木昆陽のお墓です。 青印が「昆陽青木先生之碑」と「甘藷講碑」です。

