吉宗は、緊縮財政で支出を抑えると同時に税収の増加を図るため、幕府の財政再建策の目玉として新田開発を積極的に奨励しました。
享保7年(1722)7月26日、日本橋に新田開発を促すための高札を立てました。
一、諸国御料所又は私領と入組候場所にても、新田に成るべき場所これ有るに 於ては、其所の御代官、地頭并百姓申談じ、何も得心の上新田取立候仕形、 委細絵図書付にしるし、五畿内は京都町奉行所、西国、中国筋は大坂町奉行 所、北国筋、関八州は江戸町奉行所え願出ずべく候。
(以下略)
享保七年寅七月廿六日 奉行」
これにより、新田開発が大いに進みました。この新田開発に多大の貢献をした人物が何人かいますが、井澤弥惣兵衛(いざわやそべえ)もその一人です。
新田開発の高札が出された2ヶ月後、井澤弥惣兵衛は吉宗に召し出され、享保8年(1723)7月18日御勘定に就任しました。伊澤弥惣兵衛は、吉宗が紀州藩主時代に治水土木で活躍していたためです。弥惣兵衛55歳でした。
弥惣兵衛は享保10年(1725)勘定吟味役格となり、享保16年(1731)勘定吟味役、さらに享保20年(1735)には美濃郡代を兼務するなど取り立てられました。
弥惣兵衛は治水土木の技術にすぐれ、「紀州流」の技術を関東に持ち込んだと言われています。
弥惣兵衛の業績の代表的なものは、享保13年(1728)の武蔵国見沼代用水開削および見沼新田開発です。
武蔵国足立郡(現在のさいたま市)の東部に見沼溜井といわれた周囲40数kmに及ぶ大きな沼がありました。 この見沼溜井は周辺の潅漑用水源となっていました。
弥惣兵衛はこの見沼溜井を干拓し新田開発する計画を立てました。
そこで、干拓地と溜井の水を利用していた村々の水を確保するために、利根川右岸の下中条村(現行田市)で取水し、浦和・川口方面にと全長60kmに及ぶ用水路を作りました。
これが見沼代用水です。見沼の代わりなので見沼代用水とよばれました。
享保12年(1727)8月から工事開始し、着工後6ヶ月という超短期間で完成させたものです。
さいたま市緑区の見沼自然公園には、井沢弥惣兵衛の銅像が建てられています。
井澤弥惣兵衛は、元文3年(1738)3月1日、85歳でなくなりました。弥惣兵衛のお墓は四谷の心法寺にあります。(右下段写真)
心法寺は、もともと三河で創建され、家康の江戸入府に伴い、慶長2年(1597)現在地に創建された浄土宗のお寺で、千代田区内で、唯一墓所をもつ江戸時代からある寺院です。
JR四谷駅より徒歩3分ほどです。(左写真)
また、吉宗は町奉行の大岡越前守忠相を、関東の農政を担当する関東地方(じかた)お用掛を兼任させました。
農政はもともと町奉行の仕事ではなく、勘定奉行の仕事なので、この登用は珍しいことでした。また、大岡越前守忠相は、この職に23年間在職していて、勘定奉行でもこれほど長く在職した人はいませんでした。
大岡越前守忠相は、地方(ぢかた)巧者と言われる田中丘隅、蓑笠之助正高、川崎平右衛門等を登用し新田開発を積極的に奨励しました。
た。
田中丘隅(たなかきゅうぐ)は、秋川で生まれ、「川崎宿」の名主の養子となり、川崎宿の本陣・名主役・問屋役の3役となりました。荻生徂徠に学び、「民間省要(みんかんせいよう)」を書き、享保8年(1723)、支配勘定格に抜擢されました。
そして、享保14年(1729)には、支配勘定格の代官に取り立てられました。
蓑笠之助正高は、享保14年幕府に召し出され,大岡忠相の支配下に入り,、関東の天領の支配,酒匂川の普請なども行ないました。
農政,治水に通じ,田中丘隅の娘と結婚しています。元文4年(1739)代官となりました。
崎平右衛門は、現在の府中市押立町の名主でした。
武蔵野新田を開発した平右衛門は、その功績により寛保3年 (1743)、大岡越前守の支配下の支配勘定格になりました。
延享2年(1745)には、美濃国本巣郡の代官となり、さらに宝暦12年(1762)、石見国大森代官を任じら、明和4年(1767)、勘定吟味役となりました。

