しかし、経済官僚についてはまだ書いていないので、今日は、経済官僚としての大岡越前守忠相について書いてみます。
将軍吉宗は、「米公方(将軍)」と呼ばれ、米価対策に力をいれました。
新田開発により耕地面積は増え幕領は約400万石から50万石増え約450万石となりました。さらに、①定免法の採用、②有毛検見法の採用、③「三分一銀納」の採用による増徴策 により年貢が増加しました。そのため市場に出回る米が増加しました。
すると米価が下がってきました。当時、武士は給料を米でもらっています。米価が安くなるということは、武士の給料が安くなるということになります。
そこで、米価を上げようと努力したのです。
そのため、①「空米取引」の容認、②堂島米会所の設置、③江戸への米の入荷統制、④幕府による米の買い上げ、⑤酒造りの奨励などの米価上昇施策を講じます。
こうした吉宗の米価対策を実際に商人等に徹底したのは大岡越前守忠相でした。
また、米価は安くなる一方で、物価は高くなっていきました。
そこで、大岡越前守忠相は物価対策にも力をいれています。大岡越前守忠相は、物価安定のため、真綿・布・繰綿・紬・晒・ほうれい綿・木綿・米・水油・蝋燭・蝋・魚油・茶・醤油・薪炭・たばこ・味噌・酢・塩・酒・紙・畳表の組合を結成させました。
また、「物価引き下げ令」の発布しました。この令により、不当に油高騰をさせた水油問屋を摘発し過料千両を課しています。
このように大岡越前守忠相は、経済政策にかなりの時間を割いて取り組んだと言われています。
その大岡越前守忠相は、元文元年(1736)19年間務めた 南町奉行から寺社奉行に異動しました。
その時、石高2000石加増されました。
さらに、寛延元年(1748)に 奏者番を兼帯することになり、4080石増され、合計1万石となり、大名となりました。これにより三河国西大平藩が成立しました。
江戸の町奉行から大名になったのは大岡越前守忠相だけです。
その大岡越前守忠相の上屋敷は、現在の霞が関にありました。
東京メトロ丸の内線「霞が関」駅のB1aもしくはB1b出口をでると、弁護士会館があります。(最上段右写真)
そして、隣は簡易裁判所、家庭裁判所があります。ここに、江戸時代、大岡越前守忠相の上屋敷がありました。
名裁判官と呼ばれた大岡越前守忠相の屋敷跡が裁判所や弁護士会館になっていることが不思議に思えます。
弁護士会館の左手の植込み(ちょうど地下鉄からの出口の上にあたります)に説明板があります。(左上写真)
また、法務省の赤レンガ棟(旧法務省本館、左写真)の敷地内に,大岡越前守屋敷跡にあった3個の庭石と二基の石灯籠が置かれているそうです。旧司法省建設の際に,その屋敷跡から移転されたと伝えられています。
しかし、残念ながら、赤レンガ棟は法務資料展示室を除いて一般の人に公開していないので見ることはできません。
大岡越前守忠相が藩主となった西大平藩は、三河国岡崎藩の隣にありました。
東海道の岡崎の宿の手前で、東海道が領地内を通過しています。なかなか重要なポイントを知行していました。
西大平藩の陣屋が復元されています。陣屋は旧東海道からほんの少し北に入った場所に建てられています。
西大平藩は定府大名で、参勤交代がありませんでした。
そのため、藩主は江戸屋敷詰であったため、郡代・郡奉行・代官など多い時で12~13人程度が陣屋に詰めていただけのようです。意外に少人数で治めていたんですね。
大岡忠相自身も江戸屋敷詰であったため、実際にこの陣屋に住んだことはありません。
右写真のように西大平陣屋の門構えと塀が大変立派なのに驚きました。
赤印が弁護士会館です。 青印が赤レンガ棟(旧法務省本館)です。

