今日は、その田沼意次について書きます。 まずは、経歴からです。
田沼意次は、享保4年田沼意行(おきゆき)の嫡男として江戸に生まれました。
意行は、吉宗が紀州藩主になる前から仕え、吉宗が藩主となると奥小姓として仕え、吉宗が将軍となったのに従って江戸城に入り将軍小姓となりました。そして、享保9年には従五位下主殿頭(とのものかみ)となり、享保19年から小納戸頭取となりました。かなり父意行も優秀だったと思われます。意行が紀伊出身の旗本である点と吉宗が部屋住みの頃からそば近くに仕えた吉宗子飼いであった点が、その後の田沼意次の生涯に大きな影響を与えました。
田沼意次は享保19年(1734)に世子家重付きの小姓となりました。16歳の時で、意次は元服前でした。
この年の12月に父意行がなくなったため家督600石を相続し、元服しました。
元文2年(1737)には従五位下主殿頭に叙任されました。
延享2年(1745)に吉宗が家重に将軍を譲ると、家重に従って西の丸から本丸に移りました。翌年の延享3年に意次は小姓頭取となり、これ以降目覚ましい昇進が始まります。延享4年に小姓組番頭格になり御用取次見習を命じられ、翌延享5年には小姓組頭となり、2000石を賜りました。これは、御用取次になった人は2000石という決まりに沿ったものだったようです。
そして宝暦元年(1751)には、見習がとれて正式に御用取次となりました。
この時、大岡忠光も御用取次でした。
そして、宝暦5年には5000石に加増され、さらに宝暦8年(1758)には5000石加増され、ついに相良1万石の大名となりました。
呉服橋御門内に屋敷を与えられるとともに、「評定所の式日にその席に連なるべきむね」仰せつけられました。家重の信頼が厚かったもとの思われます。
なお、相良城は、田沼意次が、12年の歳月を費やして築城しましたが、意次が失脚すると徹底的に破却されました。
現在は、石碑が、その面影をのこしているだけです。(右上段写真)
宝暦10年4月26日に大岡忠光が死ぬと、家重は5月13日に、長男・家治に将軍職を譲って大御所となりました。
そして翌年家重の死去の際に、家重は、意次は「またうと(正直者)」だから、これからも引き立てて用いよという遺言を残していると伝わっています。
これにより、田沼意次は家重時代以上に家治の代に政権の中枢として活躍することになります。

