家治は 、元文2年(1737)に生まれました。母は梅渓通条(うめたにみちえだ)の女お幸の方で、幼名は竹千代といいました。寛保元年(1741)8月、元服して従二位権大納言に叙任しました。
宝暦10年5月13日に譲られ9月2日に将軍宣下がありました。24歳でした。
将軍家治の代になっても田沼意次は重用されます。
将軍が変わると、前将軍に仕えていた人たちは、前将軍とともに本丸をさり、新将軍に仕えていた人が権勢をふるうようになるのが一般的です。しかし、家治が新将軍になっても、田沼意次は、本丸に残っただけでなく、家治の側近として力をふるいました。
宝暦12年には、意次は5000石の加増を受けた1万5千石になりました。
明和2年(1765)には、日光で徳川家康の150回忌の法会を行われ、意次は家治の名代として参列しました。
明和4年 側用人の板倉勝淸が西の丸老中に転出した後の側用人に昇進しました。それに伴い、位階が従四位下に進み2万石の相良城主となりました。
そして、相良藩といっても無城であったのですが、相良に城を築くことが許されました。
とうとう城持ちの「城主」になったわけです。
なお、この従四位下と「城主」への昇進は意次特別のことではありませんでした。
それまでの側用人も同様に昇進していました。
大岡忠光が側用人になった際には、岩槻藩2万石に加増されています。
明和6年(1769年)になると、意次は侍従にあがり老中格になりました。そして5000石を加増され2万5千石となりました。
意次は、それまで中奥のトップでしたが、表には正式には関与していませんでした。
しかし、以後は、正式に幕府政治のトップの一員として幕政に関与することとなりました。
安永5年には、家治が日光社参を行っていますが、田沼意次は、これに老中として供奉しています。
日光社産が無事終わった安永6年に7000石の加増がありました。
田沼意次は、安永9年に、初めて自分の領地である相良に行き、すでに完成していた相良城に入りました。
それまで、意次は側用人兼老中として幕政に忙しく自分の城と領地をみたことはありませんでした。
そこで、家治は一度は新たにできた城と領地をみておくことを許したのではないでしょうか。
その相良城には、城の痕跡を残すものはほとんどなく、標柱が相良城であったことを示すのみです。

