まず田沼意次のの出世の前提として、田沼意次の並外れた能力・器量があると言います。
その上でまず第一に挙げるのは、老中と側用人を兼務したことこそが稀にみる権勢を手に入れた由縁だと言います。老中制度が完備されてくると将軍が積極的に幕政に関与しようとすると老中以下の諸役人の職制や機構が障害となってきました。将軍が幕府職制を尊重すればするほど自由な行動をとることが難しくなります。
そこで、将軍の手足となって働く近習役が必要となってきます。それが側用人です。
田沼意次が大きな権力をもつことができたのは、表の幕府職制の頂点である老中と、中奥の役人の頂点である側用人を兼ねたところにあります。
老中は幕府の政策を立案し実行する責任者です。将軍は、老中からその政策の可否を問われて側用人に補佐されて決定を下します。
老中と側用人を兼ねるとということは、政策の立案と執行、それと将軍の判断を補佐する役を同一ℳ人が果たすことになります。
田沼意次を介して表と中奥が一体化したことになります。
だから意次の権勢が強くなったと言います。
次いで、田沼意次は、大名家と姻戚関係を積極的に結び、幕府役人のなかに田沼派を形成し、要所要所に一族を配置しました。
意次の嫡男意知の妻は、老中松平康福(やすよし)の娘です。松平康福は、石見浜田藩の5万4千石の譜代大名です。
次男の意正は老中の水野忠友の養子に行きました。
意次の三女が嫁いだ西尾忠移(ただゆき)は遠江横須賀藩3万5千石で奏者番でした。
四女は井伊直朗(なおあきら)と結婚しています。井伊直朗は彦根藩井伊家の分家与板藩二万石で若年寄でした。
意次は、老中や若年寄など重要ポストの役人と姻戚関係となっていたのです。
さらに、意次は大奥とも深い関係を結んでいました。
田沼意次が権勢をふるっていた頃の大奥の実力者名は「高丘(たかおか)」でした。
この高丘と意次は密接な関係となっていたようです。
意次は、大奥で大変評判が良かったそうですが、大奥の評判がよいということが、すでに大奥と良好な関係を結んでたいたことを意味していることになるようです。

