田沼意次の権勢も、天明4年(1784)の長男意知の死を契機として衰え始めます。
意知の死というショックにもかかわらず、田沼意次は2年ほどは懸命に職務に励みます。しかし、天明6年(1786)8月27日に老中を辞任させられます。
10代将軍家治の死は、公式には9月 日とされていますが、実際には8月25日に死去したと考えられています。意次は、将軍の死が秘せられていた間に失脚したと考えられています。 こうして、意次の失脚がはっきりしてくると、意次の次男意正を養子としていた水野忠友は9月5日に意正を離縁し、長男意知に娘を嫁がせていた松平康福は、9月7日に田沼家とは交際をやめる旨を幕府に届けでました。
今まで、意次にすり寄っていた(?)人たちの変わり身の早さに、意次も唖然としたのではなしでしょうか。
さらに、閏10月5日には家治時代の加増分の2万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と神田橋にあった屋敷の明け渡しも命じらたうえ謹慎も申し渡されました。
この動きは一橋治済(はるさだ)と御三家の企みがあったとされています。
そしえ、天明7年10月2日には、意次は、隠居と下屋敷での謹慎を命じられ、2万7千石の減封を受け1万石となります。しかも相良城は徹底的に打ち壊されました。
長男の意知は既に死去していて、他の三人の子供は全て養子に出されていたため、家督は孫の龍助が継ぐことになりましたが、相良から陸奥1万石に転封されました。
これは、新たに老中に就任した松平定信の寛政の改革が天明7年6月に始まったことによるものと言われています。
田沼意次は、天明8年7月24日失意のうちになくなりました。
そして、駒込勝林寺に葬られました。
勝林寺は、現在は染井霊園近くに移転しています。(山門は左上写真)
右の写真は、田沼意次の墓地です。墓地の前の女性は、田沼意次ファンの ほーりー です。
昨年4月に、江戸検一級合格者の2期会で染井を散策した時の写真です。
ほーりー は意次に供えるお花を準備するほどのファンです。
ところで、この ほーりー が江戸検の試験日10月28日に三省堂でトークイベントを行ないますので、お時間のある方ぜひご参加ください。
江戸検を受験される方、試験が終わってほっとした時間に一休みがてらいかがですか。
概要は以下の通りです。
10月28日(日) 16:00開場 16:30~START
会場 三省堂書店 問い合わせ/申し込み 0332333312(三省堂書店)
参加無料※事前申し込み制
詳しくは、 「ほーりーのお江戸へGO!」 をご覧ください。
ほーりーのブログも女の子らしくてグーですね。飛んでみてください。
さて、少しページに余裕がありますので、田沼意次と平賀源内のことを書いておきます。
平賀源内は、江戸中期にあらゆる分野に才能を発揮した日本のダ・ビンチと言われる人物です。
この平賀源内が田沼意次と関係があります。平賀源内は、長崎に2回留学していますが、2回目は田沼意次の支援によるものと言われていて、これはかなり有名な話です。
そして、安永5年(1776)11月、日本初の発電器エレキテル(摩擦静電気発生装置)を完成しました。これは第2回目の長崎遊学の折、壊れたエレキテルを持ち帰ったものを復元したものとされていますが、エレキテルについて初めて紹介したものです。
江東区清澄1-2-1の読売江東ビルの敷地内に、「平賀源内電気実験の地」の石柱が建っています。(写真参照)
この実験が行われた地には、田沼意次の子供たち、つまり暗殺された意知や水野忠友の養子となった意正らが平賀源内の自宅を訪れているそうです。

