これは、御三家と組んだ一橋治済の画策によるものと言われています。
しかし、政敵の田沼意次が辞職したので、すぐに松平定信がからといって、松平定信がすぐに老中に就任できたわけではありませんでした。
今日は定信の老中就任までの動きを書きます。
一橋治済は、松平定信の老中就任を実現するために、御三家に打診し賛同を得ると、大老井伊直幸と老中水野忠友に定信を推薦する旨の申し出をします。
しかし、御三家は幕政からはシステム上排除されていたため、こうした申し出は老中たちの激しい反発を受けました。
さらに大奥からも異論が出ます。
9代家重の代に、将軍の縁者を幕政に参画させてはならないとの上意があったが、定信は家斉の従兄妹であり、松平定信の妹が家治の養女となったことで定信とは兄弟の関係にあるので、家重の上意に反するというものでした。
田沼意次辞任後も、幕閣には、松平康福(やすよし)、水野忠友ら旧田沼派がそのまま老中として残っていましたし、田沼意次自身も、雁の間に詰めていました。
そして、前述のごとく大奥にも田沼派が残っていました。
さらに、御側御用取次には、意次の甥の田沼意致、本郷康行、横田準松(のりとし)の田沼派の人々が温存されていました。
しかし、5月になると、御側御用取次が次々と罷免されました。
この田沼派の罷免に結果として大きな役割を果たしたのが江戸での打ちこわし いわゆる天明の打ちこわし といわれるものです。
天明7年(1787)5月20日に江戸市中で打ちこわしが起こりました。
政権争いとは直接関係のない打ちこわしにより、5月24日に本郷康行は罷免され、28日には意致は病気のより依願免職となり、29日には横田準松(のりとし)が解任されました。
9月には田沼により擁立された大老井伊直幸が、天明8年(1788)3月28日勝手掛老中水野忠友に罷免され、4月3日に老中松平康平を解任し、ようやく田沼派がいなくなりました。
松平定信政権誕生の特徴は、一橋家と御三家の支援があって誕生したということでした。
そのため、定信の幕政運営の方法は、従来のやり方とかわり、重要政策の決定以前に御三家に相談し、その賛同・支持を得た後に決定するという方式をとりました。
松平定信は、6月19日に老中に就任しました。
さらに、松平定信は天明8年3月4日に将軍補佐に任命されます。 そして、天明8年4月4日に松平信明、4月11日に松平乗完(のりさだ)、寛政2年4月16日に本多忠 11月16日に戸田氏教が老中に就任しました。
この老中たちにより寛政の改革が実行されました。
☆上写真は白河城