寛政の改革を皮肉った次の狂歌は非常に有名です。
「世の中に蚊(か)ほどうるさきものはなしぶんぶ( 文武)というて夜も寝られず」
これは、寛政の改革のうちの特に文武振興策を皮肉ったものです。
こう詠まれるほど、定信は、文武振興に力をいれました。
では、なぜ、文武振興が必要だと考えたのでしょうか。
松平定信は、田沼意次の時代には、武士が奢侈で怠慢な生活を送り、遊惰な風潮に染まっていたと考え、幕臣の士風刷新が必要と考えました。
そこで、松平定信は次のような文武振興策を講じました。
まず「湯島の聖堂の充実」です。 湯島の聖堂は、もともとは、上野にあった林家の私塾でした。
その後、綱吉の時代に湯島に移転しました。(右写真は現在の湯島の聖堂です。)
林家は幕府の儒者で、大学頭として聖堂で教えていました。しかし、享保8年(1723年)に林鳳岡が死去した後 には林家には優秀な人が出ず朱子学は衰え聖堂も無用の長物とされていました。
そこで、松平定信は、聖堂を幕臣の教育センターとするため、天明7年(1787)に徳島藩の儒臣であった柴野栗山を聖堂付の儒臣とし、岡田寒泉、尾藤二洲も幕府の儒臣としました。
そして、「寛政異学の禁」です。
寛政2年(1790)5月24日朱子学以外の学問を教えることを禁止しました。
朱子学が、風俗取締りを進める松平定信にとって都合がよかったと言われています。
この禁止はあくまで学問所のみにおいてのものでしたが、各藩の藩校もこれに倣ったため、朱子学以外の学問を異学として禁じる傾向が一般化していきました。
そして、林家の私塾であった聖堂は寛政2年(1790)に幕府の正式は教育機関となり昌平坂学問所とよばれるようになりました。
さらに寛政5年(1793)に大学頭林信敬が死ぬと林家の血統が絶えたため、美濃岩村藩松平薀( のりもり)の三男乗衡(のりひら)に継がせ林述斎となりました。左写真は、聖堂内の入徳門で、宝永元年(1704)に建てられたものです。右下写真は聖堂内の仰高門です。
また、寛政4年(1792)から旗本・御家人層を対象に「学問吟味」を実施しました。
試験の目的は、優秀者に褒美を与えて幕臣の間に学問奨励の気風を行き渡らせることでした。また、官吏登用にも利用しました。
年少者を対象にした素読吟味も寛政5年から行われました。
武については、武芸を励ますため、将軍の御前で武術を披露する上覧が毎年行われ、優れた武芸者には名誉が与えられました。
このような文武振興政策を、改革早々に批判したのが有名な朋誠堂喜三二(ほうせいどう きさんじ)の黄表紙『文武二道万石通』と恋川 春町の黄表紙『鸚鵡返文武二道』です。朋誠堂喜三二は秋田藩の江戸留守居役であった平沢常富のペンネームで、幕府からの処罰をおそれた藩主の指摘により、それ以降、黄表紙から手を引きました。
恋川 春町は倉橋 格(いたる)は駿河小島藩滝脇松平家藩士で、江戸藩邸のあった小石川春日町から恋川春町というペンネームを付けたと言われています。
恋川春町は、幕府からの呼び出しに病気を理由に出頭せず、,間もなく死亡しました。そのため、自殺とする説もあります。
松平定信の文武振興策の底流にも田沼憎しの考えがあるように感じますし、「寛政異学の禁」や改革への批判を封じるための出版統制などをみると、現代的に言えば、「リベラル」とは言えず、やはり「保守」の範疇にある政策なんだろうと思います。

