しかし、来週は、もう江戸検の試験日で受験する人たちは、お休みなどという状況ではないでしょう。
そこで、今日は休まず、寛政の改革の内の人足寄場はについて書きます。
七分積金と並んで民政上の功績としえ評価されている定信の政策に人足寄場があります。
寛政2年(1790)に、無宿人に対して授産・更生の道をひらき、江戸市中から無宿人を一掃して治安の向上をはかるため、人足寄場を開設しました人足寄場は、高校の教科書でも出てくると思いますが、江戸大好きな人はご存じだと思いますが、テレビの「鬼平」で有名な火付盗賊改の長谷川平蔵の建議を受けて設置されました。
長谷川平蔵は、江戸に集まってくる無宿人が犯罪の温床と考えました。そのため、無宿人対策が大切と考え建議したようです。
石川島近くの1万6030坪の地を埋め立てて建設しました。後には、隣接する石川大隅守の屋敷1万6700坪が寄場に編入されています。
設置当初は、設置を建議した長谷川平蔵が責任者として管理しましたが、寛政4年(1792)には任を解かれ、寛政6年には、人足寄場は町奉行の管理下に移されました。
人足寄場に収容されるのは、無宿人のほか、入墨や敲きなどの処罰を受けた啓犯罪者のうち引き取り手のいない人々でした。
人足寄場は、犯罪者の収容施設(いわゆる牢屋)ではありません。手に職を持たせて自立させようというのが本来の趣旨です。そのため、寄場内には手業場があり、大工や建具師の養成のほか、精米、紙漉(す)き、油絞り、牡蠣殻灰(かきがらはい)製造、炭団(たどん)作りなどの作業を行わせました。
そして、その作業に対しては賃金が支払われました。そして、出所した時に正業につくための資金にするため賃金の3分の1は強制的に積み立てさせました。
さらに、精神教育にの力が入れられ、中沢道二による石門心学の講義も行われました。こうした精神訓話により、出所後も、犯罪を起こさせないようにしようとしました。
石川島に、現在、灯台が復元されています。右上写真は、佃大橋から見た石川島の遠景です。大きく写っている高層マンション群は大川端リバーシティ21です。左上写真が石川島灯台です。
この灯台は、もともと、慶応2年(1866)、石川島人足寄場奉行清水純畸が、隅田河口や品川沖航行の船舶のため、油絞りの益金を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたものでした。
赤印が石川島灯台です。

