9月に京都御所の参観に行ってきましたが、現在の京都御所は松平定信の造営した寛永2年度の御所をベースにしているとの説明がありました。
御所は、定信が老中であった寛政2年(1790)に再建されていました。
天明8年(1788)正月30日の京都で起きた火災は、京都の町の大部分を焼く大火で「天明の大火」と呼ばれるほどの大火でした。この大火で御所が炎上してしまいました。時の天皇、光格天皇はしばらく行在所を聖護院に置いていました。
朝廷は、御所の再建にあたって、旧制に則った御所の再建を幕府に要求しました。従来から、御所の再建費用は、幕府が負担する必要がありましたが、その費用は多額になるため 定信は自ら京都に赴き、朝廷と交渉しました。
そして、20万両を超える巨額な費用を投じて、寛政2年(1790)の秋、幕府の手によって御所が再建されました。
その後、重大な問題が起きました。
それが「尊号事件」です。後桃園天皇が22歳で亡くなり嫡子がいなかったため、閑院宮家の兼仁親王が皇太子となり、光格天皇が安永9年(1779)に9歳で即位しました。
閑院宮家がつくられたのは、宝永7年(1710)で新井白石の建言によるものでした。東山天皇の第6皇子直仁親王が閑院宮家の初代です。
光格天皇は即位早々から、実父の閑院宮典仁(すけひと)親王に「太上天皇」の尊号を宣下したいと考えていて、寛永元年に、その意向が定信のところに届きました。
幕府の定めた「禁中並びに公家衆諸法度」によれば、親王の地位は、右大臣、左大臣の下でしかありません。従って、閑院宮典仁(すけひと)親王は光格天皇の実父でありながら、公卿より下として扱われます。
光格天皇はこれを嘆き、太上天皇の尊号を送ることにより解決しようと考えました。松平定信は、典仁(すけひと)親王が皇位についたことがなく前例がないことを理由に拒否しました。
しかし、朝廷側は、寛永3年に、参議以上の群議をもとに尊号宣下実現を強硬に申し入れた。
これに激怒した松平定信は、中山愛親・正親町公明を江戸に召喚し尋問し、中山愛親を閉門、正親町公明を逼塞の処分としました。
その結果、光格天皇も尊号の宣下を取りやめました。

