受験される皆さんにとっては最後の一週間となりました。
この一週間は総復習の一週間だと思います。
一月から書いてきた「徳川将軍15代」関連の記事も松平定信まできましたが、総復習の一週間の時期に、新しい情報を提供するのも如何とは思いました。
そう思いましたが、ここで止めるのも中途半端だと考え、今週一週間も従来同様に書いていくことにしました。
受験される皆さん、今週は総復習に注力していただいて、私の記事は新聞のコラムを読むようなつもりでお読みください。
今日も、松平定信の続きについて書いていきます。明日以降、水野忠邦について書いて「徳川将軍15代」は終了しようと思います。
さて、松平定信は、寛政5年(1793)7月23日老中ならびに将軍補佐役を辞職を申し出認められました。昨日書いたように光格天皇が実父典仁親王に太上天皇の称号を贈ろうとしたことに対して定信が反対しました。
当時、将軍家斉は実父一橋治済を大御所に迎えようとしていましたが、これについても同じ理由で定信は反対しました。
このことを将軍家斉は不興に思い、これが定信の老中解任に大いに絡んでいるといわれています。
しかし、その他、いろいろな事情がありそうです。
その一つが将軍家斉の実父一橋治済との対立です。
一橋治済は、定信が老中になる直前に当主のいなくなっていた田安家に治済の五男の慶之丞を養子として押し込みました。実兄の治察がなくなった際に、定信が当主になろうしましたが、それが実現せず、田安家は当主がいませんでした。
その当主に、定信が戻るのを阻止した黒幕とも思われている一橋治済の子供がなるのですから、定信は良い気持ちがするはずがなく、治済とは溝が生じていました。家斉が将軍となった後、一橋治済は、隠居したうえで将軍の後見に専念し、できれば二の丸居住したいと考えたいたようです。
定信はそれに反対し治済の願いは結局実現しませんでした。
さらに一橋家に対する幕府からの拝借金の繰り延べ返済の実施など財政支援に対して制約を設けました。
こうしたこたから定信に対して治済は不満を募らせました。この治済の気持ちは当然家斉にも伝わったと思われます。
第二に大奥との対立があります。
松平定信は、大奥にも倹約を指示しましたが、倹約を徹底するため、田沼政権時代から力を持っていた奥女中や留守居をはじめとする広敷役人を大幅に更迭しました。
また、大奥の将軍への影響力排除のため、将軍を西の丸時代から育ててきた年寄高橋の姪於万が竹千代を生んだため、高橋の家斉への影響力が大きくなることを懸念して年寄高橋を排除しました。この高橋の排除は、大奥に対する倹約の貫徹の障害をなくすという側面もありました。
こうして大奥に対する統制が強まる中で、当然のことながら、大奥の不満は強まることとなりました。
また、馴染みの女中を排除されたことに対する家斉の定信に対する反感も強まったと言われます。
最期に、改革に対する世間一般の不満があります。
有名な次の狂歌が世間の不満を如実に表しています。
白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき
その他、次のようなものもありました。
孫の手の痒い所へ届きすぎ 足の裏までかきさがすなり
こうした改革に対して様々な層から不満・批判がでてきた結果、松平定信は失脚することとなりました。
定信は、老中解任後は、白河藩政に力をいれました。
そして、文化9年(1812)嫡子定永に家督を譲った後は、築地の下屋敷浴恩園に住んで悠々自適の生活を送りました。
浴恩園は、一万七千余坪の広さがあり、園内には春風池、秋風池、池を囲む築山などがあり、素晴らしい庭園だったといわれています。
定信が悠々自適の生活を楽しんだ浴恩園は、現在の築地市場になっています。
浴恩園のあった場所は、明治になって海軍省の敷地となり、関東大震災後は、日本橋から魚市場が移転してきて築地市場となりました。
そのため、築地市場の正門近くの塀にに、その面影を刻んだ銅版画と教育委員会の説明板が設置されています。(右最上段と左中段の写真)
なお、定信が書いた「宇下人言」は定信の自伝ですが、その書名は、定信の定を宇と下に分け、信を人と言に分解したもので、まとめると定信の名前になります。文政6年(1823)に松平家は白河から桑名に転封になりました。桑名は、久松松平家にとって旧地です。この転封のためには、松平家から相当幕府に働きかけがされたと思われます。
この時の転封は桑名藩主松平忠堯を忍へ、忍藩主阿部正権を白河へ、白河藩主松平定永を桑名へ転封とする三方領地替えでした。
有名な「楽翁」と名乗ったのは、文政9年からで、亡くなるまでの3年間のことでした。
そして,文政12年5月13日になくなりました。72歳でした。
墓は、深川の霊岸寺にあります。山門を入り、本堂西側の塀に囲まれた一画の中にあります。(右上写真)

