寺社奉行となった、水野忠邦は、その後順調に昇進していきます。
文政8年(1825)に大坂城代となりました。水野忠邦は、大坂城代に昇進することを「青雲の要路」といっています。
文政9年(1826)には、京都所司代となって越前守となりました。文政11年(1828)に西の丸老中となって将軍世子家慶付となりました。
老中になるまでの間2400両の昇進運動費を使ったと言われています。
天保5年(1834)に水野忠邦を引き上げ出てきた水野忠成が病没したため、代わって本丸老中に任ぜられました。41歳でした。
天保8年(1837年)、将軍徳川家斉は西丸で退隠し大御所となり、家慶が将軍職となりました。
家斉は50年間も将軍職にあり、引退した時は66歳でしたが、引退したといっても、まだまだ元気で、厳寒の朝でも小袖2枚に胴着のほかには重ね着をしなかったそうです。
家斉は、側室40人、そのうち17人から55人の子供が生まれました。
しかし、美童も好み、水野忠邦を引き上げた水野忠成も美童の一人であったとも言われています。
こうした家斉の周辺には、側御用取次の水野忠篤、若年寄林忠英、新番頭格美濃部茂育(もちなる)などの側近が権勢をふるい続けました。
このため、天保10年(1839)に老中首座となりましたが、幕政改革は進みませんでした。
天保12年(1841年)に大御所家斉が死去しました。これを好機として、水野忠邦は改革抵抗勢力であった家斉側近の御側御用取次の水野忠篤、若年寄林忠英、新番頭格美濃部茂育(もちなる)を罷免・左遷しました。
また。家斉の御伽を務めた中野石翁も奥勤めを禁止され、寺島村の粋をこらした抱屋敷を没収しました。
さらに、大奥に対する粛清を行い、多くの奥女中を罷免しました。
こうして天保の改革が開始されました。
天保12年5月15日に将軍家慶の誕生日に老中以下布衣以上の役人全部が集められ、享保・寛政の改革に倣った幕政改革の上意が家慶自ら伝えられ、天保の改革の実施が宣言されました。
そして、「水野の三羽烏」と呼ばれた、
目付鳥居耀蔵、天文型見習兼書物奉行支渋川六蔵、御金改役後藤三右衛門
さらに、「幕府の三人兄弟」と呼ばれた
小普請奉行川路聖謨、勘定吟味役羽倉外記、韮山代官江川英龍
を活用し、綱紀粛正と奢侈禁止を柱として天保の改革を始めました。

