水野忠邦が進める天保の改革は、松平定信の行った寛政の改革より統制色の濃いものとなりました。
今日は、その統制がいかに厳しいモノだったかについて歌舞伎と寄席を例に書いていきます。
天保の改革は、庶民の生活にまでおよび、庶民の奢侈禁止が徹底され、庶民の娯楽も禁止されました。
歌舞伎については、特に厳しい統制が加えられました。
天保12年(1841)10月、中村座から出火し全焼しました。さらに、火災は堺町・葺屋町一帯に延焼し、市村座も類焼して全焼、浄瑠璃の薩摩座と人形劇の結城座も被災しました。芝居小屋が焼けたことは、幕府にとって願ってもいない好機でした。
奉行所は中村座と市村座に芝居小屋の再建を禁止し、浅草に移転させることにしました。
この際、水野忠邦は、江戸三座は取り潰すつもりでしたが、町奉行遠山金四郎が反対したため取り潰し案がなくなり移転させることとなったという説もあります。
天保13年正月には、浅草にあった丹波園部藩小出家の下屋敷を収公して、一万坪余りの跡地に、中村座・市村座・薩摩座・結城座を移転させました。
そこは新たに芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名に因んで猿若町と名付けられました。
これには、歌舞伎が江戸市中の風俗に悪影響を与えているという考えに基づく隔離政策の面もありました。
そのため、今後、一般市民と交際してはならないとか外出時には編み笠をかぶれといった制約も課せられました。

これだけではなく、天保13年6月には七代目市川團十郎を奢侈を理由に江戸十里四方所払いにしたり、三都から巡業に出た役者を抱えて興業を行わないことを各地の城下や寺社に命じたり、旅役者が御府内で興業することも禁止しました。
まさに歌舞伎を目の敵にしている感があります。
また、寄席も弾圧されます。
天保13年2月12日にお触れが出され、従来500以上のあった寄席が、15軒だけに制限されてしまいます。
さらに、演目では、神道講釈、心学、軍事講釈、昔話以外は上演してはならないこととされ、話の中に鳴り物などをいれることも厳禁とされました。
さらに、人気のあった女義太夫、女浄瑠璃も厳しく統制をされました。
このように江戸っ子の楽しみであった歌舞伎や寄席まで統制を加えられ、江戸の庶民文化は、まさに火の消えたような状況になってしまったのでした。
右上、左上の写真は、ともに現在の浅草6丁目にある、猿若町であったことを示す標柱と石碑です。

