吉良上野介の首を挙げた赤穂浪士は休息のため回向院へ向かいました。
これは、事前に定めた「人々心得之覚書」に
引き取り候う場所は無縁寺(回向院のこと)なるべし。ただし無縁寺へ入らず候はば、両国橋東の橋際の広場に打ち寄せ申しべきこと(読み下し文)
と書かれていますので、討ち入り前に決まっていた行動だと思われます。
回向院は、明暦3年(1657)に起きた明暦の大火(別名振袖火事)でなくなった人々を供養するために、幕府が建立したお寺です。
現在は、京葉道路側に山門(右写真)がありますが、江戸時代には、西側つまり隅田川に面して表門がありました。江戸時代の両国橋は、現在の両国橋より50メートルほど下流に架けられていて、両国橋を渡ってくると正面に回向院が見えるという位置関係にありました。
回向院での休息を申し込んだ赤穂浪士に対して、回向院は暮れ六つ以後明け六つ以前は誰もいれない決まりとなっていると断りました。
回向院は関わり合いになって後難が生じるのを怖れたものと思われます。
そこで、赤穂浪士一行は両国橋東詰で休息しながら上杉家からの討手を迎え撃つ準備をしました。
現在の両国橋は、赤穂浪士が討ち入りをした頃に比べて50メートルほど上流に架けられています。
そのため、左下の写真が説明板ですが、説明板の前方には、両国橋は写りません。
大石内蔵助は、上杉家からの討手は必ず来ると確信をしていたようです。しかし、上杉家からの討手はかかりませんでした。
これは、上杉家では、藩主綱憲は討ち入りの報告を受けるとすぐに救援を出そうとしますが、救援の兵を揃えたり情報を収集するのに手間取っている間に、幕府から高家畠山下総守義寧(よしやす)が訪ねてきて兵を出さないようにとの老中の意向を伝えたため、救援の兵を出すのを断念せざるを得ませんでした。
「忠臣蔵」の映画やドラマなどでは、実父の吉良上野介のために援軍を送ろうとする綱憲に対して家老千坂兵部がこれを諌めて救援を止めさせる場面があります。「忠臣蔵」の名場面の一つです。
しかし、これはフィクションだと言われています。
というのは、一方の主役である千坂兵部は、元禄13年5月につまり討ち入りの2年前に亡くなっていました。
当時の江戸家老は色部又四郎ですが、色部又四郎も、討ち入りの当日は、上杉家の上屋敷にはいなかったと言われていますので、色部又四郎も止めようがなかったと思います。
止めたのは、高家畠山下総守義寧だったのでした。
上杉家の討手が来ないため、赤穂浪士一行は高輪の泉岳寺へ急ぐことにします。
その際、両国橋を渡らず、隅田川沿いに南下するルートを通りました。
本所から泉岳寺に行くには隅田川を両国橋で渡って江戸市中に入るのが近道ですが、そうすると武家屋敷街を通ることになります。
討ち入りの翌日は15日です。その日は、大名・旗本の登城日にあたっていました。
当時は、月次御礼(つきなみおんれい)といって、江戸にいる大名と旗本は、毎月1日と15日それと28日(正月、2月、4月、7月、12月のみ)には、江戸城に登城することになっていたのです。
そこで、泉岳寺までの引揚途中に大名行列と遭遇したり、大名屋敷近くで誰何されたりして、トラブルになる怖れがないとはいえません。
不測の事態の起こるのを懸念した大石内蔵助は、両国橋(右上の写真は現在の両国橋を日本橋側から撮ったものです)を渡らず、そのまま隅田川に沿って南下するコースをとりました。
それが、いわゆる「赤穂浪士引き揚げルート」です。

