一之橋の南詰にあり、赤穂浪士引き揚げルートに向かって鳥居があります。
右下写真は、一の橋通りに面している一の鳥居(と呼ぶと思います。たぶん)です。
江島(えじま)とは、江の島のことです。そして杉山は杉山和一という人の名前からきています。
お祀りされているのは、江ノ島弁財天(市杵島比売命)と、ハリ(鍼術)の神様・杉山和一総検校です。
江戸時代の切絵図には「弁天社」と書かれていますし、江戸名所図会には「弁財天社」と書かれています。
明治以降は「江島神社」となり、昭和27 年より「江島杉山神社」と改称されているそうです。
現在の社殿は昭和27 年に再建されました
左下写真は二の鳥居と社殿です。
杉山和一は、ハリ(鍼術)で神様として神社に祭られている唯一人の人物だそうです。
杉山和一は、伊勢国安濃津(現在の三重県津市)で藤堂藩士の嫡男として生まれました。なお、江戸名所図会には、奥羽生まれとかかれています。杉山和一の生涯については、諸説あるようで、いろいろな生涯の描き方がありますが、ここでは、神社の由緒書きに基づき書いていきます、
幼くして疱瘡にかかり失明し、江戸に出て 山瀬琢一に 鍼術を学びました。
しかし、記憶力がわるく技術も向上しなかったため、山瀬琢一から破門されてしまいました。
盲目では限界があると考え、江の島弁財天に詣で岩屋に篭もり17日間の断食修行を行ないました。
修業の満願の日に、洞窟から海岸に向かうと大きな石につまづき倒れた時に足にチクリと刺さる物があり、手に取ってみると、筒のようになった笹の葉に松葉がくるまっていました。
これから、管鍼[くだはり・かんしん]術が考案されたと伝えられています。
その後和一は、京都に行き 入江豊明にも 鍼術を学びますが、和一は、再び江戸に戻り、鍼の名人として有名となりました。
和一の評判を聞いた5代将軍綱吉が、和一を呼び自分の治療に当たらせました。その甲斐があり、綱吉の病状は回復しました。
元禄5年(1692) 盲人の全国組織、当道座の最高位である総検校に任ぜられました。
綱吉は和一が目が見えないのに、毎月江ノ島まで出かけて、江ノ島弁天にお参りして感謝しているのを不憫と思い、元禄6年(1693)5月16日に本所一つ目に1860坪余りの屋敷を与え、さらに弁財天像とそれを祀る神社用地989坪余りを与えました。
このお屋敷と神社用地を拝領する際の逸話に、綱吉が和一に「何かほしいものはないか」と尋ねたら、和一が「たった一つだけ、目が欲しい」との答えたため、本所一ツ目が選ばれたと言います。
杉山和一は、鍼治学問所をつくり、弟子の教育にも力をいれました。
江戸時代の後期には、二の鳥居の手前・南側にその教育施設「杉山流鍼治稽古所(4間余25間)」があったそうです。
和一の業績が認められ、大正13年2月11日に正五位が追贈されたのを記念にして作られた「贈正五位杉山検校彰徳」の石碑があります。世界に一つしかない点字の石碑です。
和一が江ノ島弁天の岩屋にこもり管鍼術を創案したことに由緒があり、それにちなんで岩屋が拝殿の右側の奥にあります。
杉山和一は元禄7年5月18日になくなりました。 享年85歳。 お墓は近くの弥勒寺にあり、東京都の旧跡に指定されています。