赤穂浪士一行の引き揚げたルーは、江島杉山神社の前を通りすぎ、一の橋通りをさらに南下していきす。 そうしますと、新大橋通りと交差します。
新大橋は、この通りに架けられています。最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1693)です。
隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられました。
隅田川に架けられた最初の橋は千住大橋で徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594)にかけられました。
次いで架けられたのが両国橋で万治2年(1659)です。
新大橋は5代将軍綱吉の生母桂昌院が、江戸市民の便が良くなるように、架橋を将軍に勧めたと伝えられています。
当時の橋は現在の位置よりもやや下流側にありました。旧の新大橋があった場所には、「旧新大橋跡」の標柱が立てられています。
萬年橋北交差点の北西角に立っています。(左写真)
新大橋が架けれた頃、新大橋の東詰近くの芭蕉庵に松尾芭蕉が住んでいました。
そして、架橋中から架橋完了後の新大橋について、松尾芭蕉が句を詠んでいます。
「初雪やかけかかりたる橋の上」 架設工事中の様子を詠んだものです。
「ありがたやいただいて踏むはしの霜」 完成後の様子です。
新大橋は、江戸時代には、何度も破損、流出、焼失しました。
明治になってからは、明治18年に新しい西洋式の木橋として架け替えられました。
そして、明治45年に鉄橋として現在の位置に架け替えられました。
関東大震災の際には、新大橋以外の隅田川に架かる橋がすべて焼け落ちてしまいました。新大橋だけが炎上を免れ、沢山の避難住民の命を救うことになりました。そのため、「人助け橋(お助け橋)」とも呼ばれました。
これは、橋の全ての構造が不燃材で出来ていた ためです。人形町の水天宮の御神体もこの橋に避難して難を逃れたと言われています。
この明治の鉄橋は、現在愛知県犬山市の明治村に約25mが移築されて保存されています。
現在の橋は、昭和52年に架け替えられたものです。
右の浮世絵は 歌川広重の名所江戸百景の「大はしあたけの夕立」です。
この絵に基づきゴッホが「大橋の雨」という絵を描いたことで有名です。
この絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図です。
絵のタイトルにある「あたけ」というのはこの新大橋の河岸にあった幕府の「御船蔵(みふねくら)」に係留されたままになっていた史上最大の御座船「安宅丸(あたけまる)」にちなんで、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたからです。
絵の左奥に灰色に煙る屋根がありますが、それが「御船蔵」です。
「御船蔵跡」の標柱が新大橋の東詰に設置されていました。「安宅丸(あたけまる)」は、寛永9年(1632)に徳川家光が幕府の船手頭(幕府水軍の総司令官)の向井将監に命じて造らせた御座船です。
艪(ろ)の数は2人掛りの100挺で、船上には二層の天守を備えていました。
外板の厚みは一尺もあるうえに船体総てに銅板を張っていたそうです。
その巨大さと頑丈さから、「日本一の御船」とよばれ、江戸の名物の一つでした。
その安宅丸は伊豆から回航されこの付近に格納されていました。
しかし、維持費用が高いため、5代将軍綱吉の命により、天和2年(1682)に解体されてしまいました
安宅丸が解体された後も明治時代まで幕府軍船の格納所として使用され、御船蔵と呼ばれました。
赤印が新大橋です。青が「御船蔵跡」の標柱です。 緑が「旧新大橋跡」の標柱です。

