清洲橋を越えて、道なりに南下すると、読売江東ビルの敷地近くに「平賀源内電気実験の地」の石柱が立っています。
右下の写真の奥の建物が、読売江東ビルです。
平賀源内は、江戸時代後期のマルチ人間で、本来は現在でいえば、博物学者ですが、その他、鉱山開発、科学者、そして陶芸、西洋画・浄瑠璃製作とさまざまな分野で活躍をしました。科学者の功績の中には寒暖計製作や火完布の製作のほか、エレキテルを復元したことなどがあります。
その平賀源内の住まいがここにありました。
ここには武田長春院という官医の下屋敷があって、源内がそこに住んでいました。
源内は、ここで、 明和3年(1770)源内が2回目の長崎留学の際、長崎から持ち帰ったエレキテルつまり摩擦により静電気を起こす機械を修理復元しました。
このエレキテルは、長崎で壊れたエレキテルを手に入れ、江戸に持ち帰ったものです。
そして6年後の安永5年(1776)に復元したものでした。
源内は、このエレキテルを公開したため、見物客が大勢詰めかけたといわれています。
平賀源内の活躍した時代はいわゆる田沼時代で、源内は老中田沼意次とも昵懇でした。
2回目の長崎留学も意次の支援があったと言われています。
そのため、田沼意次自身は、深川を訪ねることはなかたようですが、意次の子供や側室もここを訪れたことがあるそうです。
源内が復元したエレキテルは逓信博物館と四国の平賀先生顕彰会に現存しているそうです。
「平賀源内電気実験の地」の石柱の10メートルほど南に、「上之橋」の親柱が残されています。
「上之橋」は、仙台堀川に架けられていた橋ですが、昭和59年に堀が埋めたてられたため、親柱だけが残されています。仙台堀川は、江戸時代(寛永以後)に開削し、運河として利用されてきました。
仙台堀川の名前の由来は、北岸にあった仙台藩の蔵屋敷に米などの特産物を運び入れたことに由来すると言われています。「仙台堀」とも呼ばれていたようです。
現在は、仙台堀川は、大部分埋め立てられていますが、清澄庭園の南部分はまだ堀として残されています。
そこで、「上之橋」のすぐ東側には、清澄排水機場があります。
「上之橋」の南には、「中之橋」「下之橋」がありました。
この3つの橋により、上佐賀町、中佐賀町、下佐賀町が、区分けされていました。
現在、「中之橋」「下之橋」はその跡も残されていません。

