猿若町と言って、すぐピンとくる人は江戸通または歌舞伎通だと思います。
猿若町は、老中水野忠邦が行った天保の改革により浅草寺北方に新らたに造られた芝居町です。
天保の改革については、以前書いたことがあり、重複するかもしれませんが、改めて書いていきます。
天保の改革は、享保の改革、寛政の改革とならんで江戸三大改革の一つに数えられています。しかし、江戸の町民にとっては最も評判の悪い改革となりました。
それは、江戸の町民生活に対して、微にいり細にいり、「贅沢禁止、質素・倹約の励行」が強制されたことによると思います。江戸の町民に対する統制は、奢侈禁止、風俗取り締まり、出版統制、娯楽禁止と広範囲に行われました。
1、奢侈禁止令の対象になったものの例を挙げると
贅沢な菓子・料理類、金銀の金物や箔をつけた破魔弓・羽子板類、8寸以上の雛・人形類などです。
2、風俗取締りでは
私娼、女浄瑠璃、女髪結い、女師匠、女義太夫などが禁止されました。
3、出版統制では
合巻、絵草子、人情本が規制されました。
4、娯楽禁止では
寄席が江戸全体で15軒に制限され、富くじ興業は全廃となりました。
歌舞伎に対する弾圧もこの一環として行われました。
水野忠邦の芝居に対する認識は「風俗の害」になっているというものでした。
江戸における奢侈の元凶は、芝居・歌舞伎役者にあると水野忠邦は考えていました。
そのため、水野忠邦は、江戸三座は取り潰すつもりだったとも言われています。
江戸歌舞伎は、寛永元年(1624)に猿若勘三郎が、中橋(今の八重洲三丁目)に中村座を建てたのが最初です。中村座は、のちに日本橋禰宜(ねぎ)町に移転、さらに堺町に移転しました。
続いて、市村羽左衛門が葺屋町に市村座を、森田勘弥が木挽町に森田座を開きました。
この中村座、市村座、森田座がいわゆる「江戸三座」です。
天保の改革が始まって間もなくの天保12年(1841)10月7日、堺町の中村座から出火し、隣の葺屋町の市村座、さらに浄瑠璃の薩摩座と人形劇の結城座も焼失しました。
芝居小屋が焼けたことは、幕府にとって願ってもいない好機でした。
そのため、奉行所は12月18日、中村座と市村座に芝居小屋の再建を禁止し、江戸三座を浅草に移転させるという通達を出しました。
この際、江戸三座を取り潰すつもりだった水野忠邦に対して、町奉行遠山金四郎が反対したため取り潰し案がなくなり移転させることとなったという説もあります。
天保13年正月には、浅草にあった丹波園部藩小出伊勢守英発(ふさおき)の下屋敷を収公して、一万坪余りの跡地に、中村座・市村座・薩摩座・結城座を移転させました。
東西およそ90間(約160メートル)、南北180間の区画に幅6間の中央道路他の道路を設けて、猿若1丁目、2丁目、3丁目としました。
そこは江戸歌舞伎の草分けである猿若勘三郎の名に因んで猿若町と名付けられました。
猿若1丁目の西側には中村座、東側に薩摩座、猿若2丁目の西側には市村座、東側に結城座が移転してきました。
また猿若町3丁目には、森田座の控櫓の河原崎座が移転してきました。
控櫓とは、本櫓が興行できない場合に代わって興行します。どういう役割をもって、どのように運営されているかは、忍び駒さんにコメントをお願いしてありますので、コメントいただけると思います。
忍び駒さん、恐縮ですがどうぞよろしくお願いします。
歌舞伎の弾圧には、歌舞伎が江戸市中の風俗に悪影響を与えているという考えに基づく隔離政策の面もありました。そこで、次のような厳しい通達を伝えています。
向後は他所に住居は相成らず。猿若町に引移り、途中往来致し候節は、寒暑とも網笠を相用い、素人に立入候儀は相成り難く候。
且つ給金の儀は、座頭の者、1か年5百両を限るべく候
つまり、「芝居関係者は猿若町以外に住んではいけない。外出時には編み笠をかぶれ。一般市民と交際してはならない」と命じられました。
また、座頭(ざがしら)の給金は500両が最大とされました。
芝居で人気のある役者は、「千両役者」と呼ばれましたが、これは文字通り千両の給料をとっていたそうです。 水野忠邦は、これはとんでもないと考えて給料にも制限を加えたわけです。
これだけではなく、天保13年6月には七代目市川團十郎を奢侈を理由に江戸十里四方所払いにしたり、三都から巡業に出た役者を抱えて興業を行わないことを各地の城下や寺社に命じたり、旅役者が御府内で興業することも禁止しました。
まさに歌舞伎を目の敵にしています。
長くなりましたので、この続きは明日書きます。
赤印が旧浅草猿若町の入口です。 青印が花川戸公園です。

