さて、昨日に続き今日も猿若座の記事を書きます。
猿若町の移転は天保13年に始まりました。まず、9月に市村座が猿若二丁目に移転しました。
そして、10月に中村座が猿若一丁目に移転しました。
森田座の控櫓である河原崎座は翌年に猿若三丁目に引っ越してきました。
そして、中村座は「金竜山誓礎(ちかいのいしずえ)」を、
市村座は「寿亀荒木新舞台(ちよばんざいあらきのしまだい)」を、
河原崎座は「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」を出しました。
移転当初の芝居小屋は、見世物小屋同然の安普請で、屋根こそあるもの、天井は荒縄でしばった葭簀張りで見物客の畳も名ばかりで板の間にござをしいた程度というような状態だったようです。こうしたこともあって、最初の頃は、お客の数はすくなくさびしいものだったようでうす。
しかし、猿若町移転の張本人の水野忠邦が天保天保14年(1843)年に失脚し、統制が緩み始めると客足が増えてきました。
猿若町は、浅草の観音様や吉原の近くにできました。つまり、芝居、遊郭、観音様という江戸っ子の大好きなものが固まることとなりました。
そのため、観音様や吉原に行くお客が猿若町に寄るようになり、徐々にお客の数が増えていきました。
水野忠邦の意図に反して、猿若町は明治初年まで歌舞伎全盛の時代と迎えることになり、「猿若町時代」と呼ばれ、歌舞伎史に一時期を画すこととなります。猿若町が観客で大いににぎわった頃の安政年間の様子を描いたのが、歌川広重の「猿わか町よるの景」です。
絵の右側に櫓が3つ見えますが、これが、芝居小屋です。
芝居小屋は西側にありましたので、この絵は、北側から南方向を見た絵です。
したがって手前から、森田座、市村座、中村座となります。
芝居がはねた後のようで、通行人もかなりいます。
また、芝居茶屋には灯りがこうこうと照っていてお客でにぎわっている様子もうかがえます。
また、空に輝くお月様は中秋の名月のようでもあります。
こうして繁栄していた猿若町も明治維新をすぎると少しずつ衰退してきました。明治5年、まず猿若三丁目という北隅のため客足の少なかった森田座の森田勘弥が築地に移転する許可を申請し、 森田座が新富町に移転しました。
そして、明治16年に中村座が鳥越に移転しました。さらに最後まで猿若町に残っていた市村座が明治25年に下谷二長町に移転し、ついに猿若町には芝居小屋は一軒もなくなりました。
芝居茶屋も昭和初めにはすべてなくなったようです。
現在は、猿若町に、その芝居町の名残りを残すものは、3つの碑と説明柱だけとなりました。
右写真の最上段が中村座跡に立つ説明柱です。
右写真中段が市村座跡の碑、右写真下段が森田座跡の碑です。
いや、もう一つ貴重なものがあります。藤浪小道具です。
藤浪小道具は明治5年の創業で、まだ猿若町の華やかな時代に創業した会社です。
市村座に職を得た初代が、莨入(たばこ)・煙管・刀等を座に提供したことに始まったそうです。
現在は演劇・舞踊・テレビ用の小道具の装飾、製作、賃貸及び販売を行っており、この業界では最大手だそうです。
赤印が中村座跡に立つ説明柱です。 青印が市村座跡の碑です。 緑印が森田座跡の碑です。

