「お夏の方」の競争相手は「お玉の方」です。
「お玉の方」はいうまでもありません5代将軍綱吉の生母です。名は玉と言いました。
幕府祚胤伝によると、父は二条関白光平公家司本庄太郎兵衛宗利(初めの名宗正)とされています。
本庄宗利は前妻がなくなったため後妻をもらいました。この後妻は八百屋仁左衛門の妻でしたが、夫がなくなったため、本庄家に奉公に出ました。この仁左衛門の妻が非常に美人だったため本庄宗利の手がつき妻となりました。
この仁左衛門の妻には連れ子が二人いました。その一人がお玉だったようです。
「お玉の方」については、よく「八百屋の娘」と言われますが、こうした経緯があったようです。
「お玉の方」は母親以上の美人だったようです。「面長で一重まぶたのいわゆる京美人だった」と書いてある本もあります。
成長したお玉は13歳の時に家光の側室となった「お万の方」と縁があり江戸に下りました。初めはお万の方の部屋子となりましたが、あまりにも美しいので春日局の目にとまり家光のお側近く仕えました。
18歳のお玉は、家光の寵愛を受けて側室に加えられ、お玉の方と呼ばれるようになりました。
正保2年(1645)2月29日に亀松を、正保3年(1646)1月8日に徳松を生みます。亀松は、家光41歳の子、徳松は42歳の子になります。
亀松は早世しますが、徳松は無事成長しました。
慶安4年(1651年)に家光が死ぬと落飾して桂昌院と名乗ります。
徳松は慶安4年(1651年)4月、兄の長松(徳川綱重)とともに15万石を拝領しました。承応2年(1653年)8月に元服し将軍家綱から偏諱を受け名を「綱吉」と改めました。
寛文元年(1661年)上野国館林藩25万石を拝領し、参議に叙任され「館林宰相」と呼ばれるようになりました。
そして、延宝8年(1680年)には将軍家綱が40歳で死去したため5代将軍となりました。
綱吉が将軍になると、桂昌院は綱吉の治世にも影響を及ぼし始めます。
桂昌院は、神仏を信仰し、盛んに神社仏閣を建立します。3代将軍家光の時代に創建された寛永寺の本堂(根本中堂)が建立されたのも、綱吉の時代です。
また、新たに創建された神社仏閣の代表が神田にあった「護寺院」と大塚の「護国寺」です。
護国寺は、綱吉が、桂昌院の願いにより亮賢僧正を招き開山とし、幕府薬草園の高田薬園の跡地に建立しました。
護国寺のご本尊は、桂昌院念持仏の天然石の琥珀如意輪観世音菩薩像です。
右上段の写真は護国寺本堂です。左上は護国寺の山門です。
また、湯島にあった知足院を移し、隆光を開山として、護持院と改称しました。
護持院は、綱吉と母桂昌院の参詣は前後数十度にもおよび,大変栄えましたが、享保2年に焼失した後は再建されず、幕府の命令ににより護持院は護国に合併され、護持院の住職が護国寺の住職を兼ねるようになりました。
しかし、明治になって、護持院は廃寺となり、現在は護国寺が残ることとなりました。
桂昌院は、元禄15年(1702)には女性最高位の従一位の官位に上り、宝永2年(1705年)6月に79歳で亡くなりました。

