今日は、その「赤穂浪士休息の地」の碑を紹介します。
碑の建てられた場所に、元禄時代、「乳熊味噌」というお味噌屋さんがあり、そこで、引揚途中の赤穂浪士たちが休憩したそうです。
というのは、乳熊味噌の初代竹口作兵衛は赤穂浪士の大高源吾と榎本其角の門下生として親しかったことから、作兵衛は一同を招き入れ甘酒を振る舞い、労をねぎらったと言われています。引揚の日は乳熊味噌のちょうど上棟の日だったそうです。
そこで、大高源五は棟木に由来を認め、又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったそうです。
そうしたことが、この碑文にかかれています。
この石碑は、昭和38年、株式会社ちくま味噌によって建立されたものです。その碑文には、次のように刻まれています。
赤穂義士休息の地
赤穂四十七士の一人大高五子葉は 俳人としても有名でありますが、ちくま味噌初代竹口作兵衛木浄とは其角 の門下として俳界の友でありました。
元禄十五年十二月十四日討入本懐を 遂げた義士達が、永代橋へ差し掛るや、 あたかも当所乳熊屋味噌店上棟の 日に当り、作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞い労を犒らったのであります。大高源五は棟木に由来を認め、又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったのであります。 昭和三十八年二月
ちくま味噌十六代 竹口作兵衛識
ここに書かれている甘酒粥は、麹が一杯入って粥状になった甘酒のことだそうです。
店の棟木には「味噌四海遍く ちくま味噌」と揮毫されていたそうです。
また、大高源吾が書き残したという看板は関東大震災後の混乱の中で紛失してしまい現存していないそうです。
乳熊味噌は、現在も「ちくま味噌」として営業しています。「ちくま味噌」によれば、初代竹口作兵衛義通が、伊勢国乳熊郷(三重県松坂市中万町)から慶安年間(1648年~51年)に江戸に進出、日本橋に塗物店を営み、作兵衛勝義(後、通称を喜左衛門と改む)が元禄初年(1688)に深川永代橋際に味噌醸造を始め、乳熊屋作兵衛門商店としたのが、ちくま味噌の始まりだそうです。
ちくま味噌のホームページによれば、勝海舟や西郷隆盛とのお付き合いもあったようです。
「ちくま味噌」は、製造と卸専門だそうです。
「赤穂浪士休息の地」の碑のある場所は、元は工場があったそうです。
現在は、工場は長野県に移転しており、その跡地はURと一緒に再開発したビルが建っています。
左写真の碑の奥に見えるのが再開発した乳熊ビルで上階はUR都市機構深川佐賀町市街地住宅となっています。
「ちくま味噌」は小売りはインターネットによる通信販売中心の営業を行っているようです。
そのため、碑のたっている場所では営業をしていません。
赤印が「赤穂浪士休息の地」の碑です。 永代橋の東詰の交差点を少し北に入った場所にあります。

