聖路加看護大学の西側の道路脇に「都旧跡 浅野内匠頭神邸跡」と刻まれた石柱が立っています。
中央区教育員会発行の「中央区沿革図集」に掲載されている延宝7年(1673)の「江戸方角安見図鑑」では、現在の聖路加看護大学と聖路加国際病院の敷地全体が、浅野又一と書かれています。浅野又一とは浅野内匠頭のことです。
また、同じく「中央区沿革図集」に掲載されている「御府内沿革図集」によれば現在の聖路加看護大学の敷地のみが浅野内匠頭となっています。
その地図によれば浅野家上屋敷の西側に表門がありました。南側は堀でした。
浅野家の屋敷は約9千坪あったそうです。ここは上屋敷ですが、下屋敷は赤坂にあり、1400坪ほどの広さがありました。
松の廊下の刃傷事件を起こしたあと、このお屋敷は幕府に収公されましたが、3日間で滞りなく処理をし、江戸っ子の喝采をあびたと伝えられています。
四十七士が討ち入りをした後、泉岳寺へ引き上げる途中で、この上屋敷の近くを通ったことは有名です。
さて、浅野家ですが、浅野家の初代は、浅野長政は、豊臣秀吉の妻のねねとは義理の姉弟になります。
信長に仕えた後に秀吉に仕え各地に転戦し、秀吉の天下になると、天正11年(1583)近江津・坂本両城で2万石余を拝領し、翌年、若狭小浜城主となりました。
文禄2年(1593)甲斐22万石に移封され、翌年五奉行の一人となります。
浅野長政は、豊臣秀吉の近親者ですが、石田三成との仲が良くなかったため、関ヶ原の戦いでは東軍に参加しました。
その論功行賞で、長男の幸長は紀伊37万6000余石を与えられた。しかし、幸長には子がないため弟長晟(ながあきら)が跡を継ぎました。
元和6年(1620)に福島正則の跡をついで安芸国広島藩に封ぜられました。そのため、浅野家の本家は、安芸の広島藩で、赤穂藩はその分家です。
広島藩浅野家は、以後、幕末まで続きます。
赤穂藩浅野家は次男浅野長重の家系です。
浅野長政は、家督を幸長に譲った後に、家康より隠居料として、常陸国真壁5万石を拝領し、真壁藩の藩主となりました。長政の死去後、真壁藩は、次男の長重が継ぎました。そして、元和8年に常陸国笠間藩に転封となりました。
その後、長重の子供の長直の時に赤穂に転封されました。これが赤穂浅野家になります。
赤穂浅野家の系図は次のようになります。
浅野長政 ― 長重 ― 長直 ― 長友 ― 長矩【浅野内匠頭】
浅野長矩は、父長友の子として寛文7年(1667)に生まれました。
延宝3年、父長友がなくなったため、長矩は9歳で赤穂5万石を継ぎました。天和3年17歳の時に、浅野一族の備後国三次藩浅野家の次女阿久里と結婚しました。
天和3年17歳の時に、勅使・院使のご馳走役を仰せつかり無事果たしました。
しかし、元禄14年(1701)3月14日の勅使供応役を勤めている最中に刃傷事件を起こすことになりました。
赤印が浅野内匠頭邸跡の碑です。

