今日は、この木挽町狩野家についてご案内します。
「みゆき通り」と昭和通りの交差する「銀座東五丁目交差点」北東角のサンビルディングの脇に中央区教育委員会が立てた「狩野画塾跡」の説明板があります。
右写真は、昭和通りから見た「サンビルディング」(左側建物))と「でんぱつビル」(右側建物)です。「サンビルデング」の壁際に説明板が立っています。
右の「でんぱつビル」の北側歩道に、「佐久間象山塾跡」の説明板がたっています。
江戸時代の狩野派は、狩野家を頂点としたピラミッド型の組織となっていました。
頂点に立つのが「奥絵師」で、これには狩野4家がありました。
それに次いで格式の高い「表絵師」が15家あり、その下に「諸藩御用絵師」と一般町人を対象とした「町狩野」がありました。
奥絵師は旗本と同格で、将軍への「お目見え」と帯刀が許されました。
奥絵師の4家とは鍛冶橋狩野・木挽町狩野・中橋狩野・浜町狩野の4家を言います。
そのうちの木挽町狩野が木挽町にありました。
狩野派の絵師で有名な人物は、狩野永徳と狩野探幽そして狩野山楽でしょう。
狩野永徳は、安土桃山時代に織田信長、豊臣秀吉に仕え大活躍し、有名な「唐獅子図屏風」や「洛中洛外図」などを残しました。
江戸時代初めに活躍した狩野探幽は、この狩野永徳の孫です。狩野探幽は御用絵師として江戸で活躍しました。有名な作品には二条城の障壁画などがあります。探幽が延宝2年(1674)に亡くなると、子供の守政が跡を継ぎました。この探幽の子孫の家系が鍛冶橋狩野家と呼ばれました。鍛冶橋近くに御屋敷を拝領していたためです。
探幽の次弟尚信が起こした家が木挽町狩野です。尚信は竹川町(現在の銀座7丁目)に屋敷を拝領したため竹川町狩野家と呼ばれましたが、のちに安永6年(1777)に6代栄川院典信(えいせいんいんみちのぶ)の時に木挽町に屋敷が移転したので、以後は木挽町狩野家と呼ばれました。
探幽の末弟安信が狩野宗家に養子に行って起こしたのが中橋狩野家です。この中橋狩野家が狩野宗家となっています。
そして木挽町狩野の尚信の孫岑信(みねのぶ)が将軍家宣にかわいがられて別家を起こしたのが浜町狩野家です。
江戸時代に最も栄えたのは、狩野派宗家の中橋狩野家でもなく、探幽の子孫の鍛冶橋狩野家でもありませんでした。
最も栄えたのは木挽町狩野家でした。
本丸は弘化元年(1844)焼失、安政6年(1859)焼失しており、その都度再建されています。
焼失した江戸城の本丸の御殿再建に際し、多くの障壁画を制作する作業は狩野派の絵師を動員して行いました。
弘化元年の焼失に際して狩野派の棟梁として指揮したのは木挽町狩野の7代晴川院養信(せいせんいんおさのぶ)でした。
また、明治の日本画の巨匠に、狩野芳崖と橋本雅邦がいますが、この二人は狩野派の出身です。
この二人を指導したのが、木挽町狩野家8代勝川院雅信(しょうせんいんうたのぶ)でした。
赤印が「狩野画塾跡」の説明板です。 東京メトロ「東銀座」駅から至近距離です。

