14日には、泉岳寺に行かれる方もいらっしゃると思いますので、途中は後日書くこととにして、先に泉岳寺について書いてみます。
泉岳寺は、赤穂浪士で非常に有名です。
しかし、泉岳寺の由緒等はあまり知られていないのではないでしょうか。
そこで、泉岳寺の由緒から書いていきます。
泉岳寺は慶長17年(1612)に今川義元の孫の門庵宗関(もんなんそうかん)和尚を招いて、今川義元の供養のため徳川家康が外桜田に創建した曹洞宗の寺院です。(現在の警視庁の近くに創建されたと言われています。)しかし寛永18年(1641)の大火によって焼失してしまい、現在の高輪の地に移転することになりました。。
この時に、泉岳寺の再建について、3代将軍家光が、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に手伝いを命じ、高輪泉岳寺が出来上がったそうです。
浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものだそうです。
泉岳寺は曹洞宗の中の有力寺院で、橋場の総泉寺、愛宕の青松(せいしょう)寺とともに曹洞宗江戸三か寺触頭(ふれがしら)でした。泉岳寺は、正式には萬松山泉岳寺といいます。
山号萬松山は松平の松を取り、「松萬代に栄ゆる」の意だそうです。
また、寺号泉岳寺は、徳川に因み、「源の泉、海岳に溢るる」の意からつけられたと云います。
つまり、強く徳川家を意識したお寺であるといえると思います。
【中門】
中門は総けやき造りで、右手に通用門があり、さらに左右に袖塀があり番小屋も付属していて、格式が高いものとなっています。(右上2段写真)
中門は、天保7年(1836)、35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたものです。また昭和7年に大修理が施されています。
門に掲げられている「萬松山」の額は中国清代の禅僧・為霖道霈(いりんどうはい)による書だそうで、「江戸名所図会」にも書かれています。
【山門】
山門(右最上段写真)は天保3年(1832年)34世大道貞釣(だいどうていきん)和尚代に再建されたものです。二階部分には極彩色の十六羅漢が安置されているそうです。
また、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめ込まれています。
写真のように非常に素晴らしいものですが、こんな素晴らしい龍があることを知っている人は数少ないのではないでしょうか
山門に掲げられている「泉岳寺」の額は、晋唐の墨蹟研究者であった大野約庵の書です。大野約庵は伊予の人で、名は猷、字は美徽、号を約庵と称し、松山藩の藩士で漢学と書を頼春水・頼山陽父子に学び、更に晋唐の遺墨を研究して名を成した書家だそうです。
この篇額を揮毫したのは、幕末の有名な儒学者佐藤一斎の推挙に因るものだそうです。
【大石内蔵助銅像】
この銅像は、浪曲家の桃中軒雲右衛門の発願により鋳造され泉岳寺に寄進され、大正10年12月14日に除幕したものです。内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連判状を手にして東の空(つまり江戸の方向)をじっとにらんでいる姿を表したものだそうです。
確かに、この大石内蔵助の銅像は東を見ています。
しかし、泉岳寺の位置では東は東京湾になってしまいます。 江戸城でもなく、築地でもなく、本所でもありません。
そのため、この銅像の当初計画された設置場所は、現在地とは違う場所だったのでないかという気もします。なお、大石内蔵助の銅像は、かなり高さがあります。右写真が全体像です。
【本堂】
泉岳寺の旧本堂は第二次世界大戦で空襲にあい焼失しました。現在の本堂は昭和28年12月14日に落成したもので、鎌倉様式の建築です。
ご本尊は釈迦如来で、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師・瑩山禅師、また大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などが納められているとのことです。
正面に「獅子吼」と書かれた額が掲げられています。これは「ししく」と読み、お釈迦様の説法のことを指すそうです。額には年月が文政二年八月と書かれていて、源斉宣と署名されています。
これは、薩摩藩の第9代藩主の島津斉宣(なりのぶ)が書いたものです。島津斉宣は島津斉彬の祖父にあたる人です。
緑印が泉岳寺本堂です。

