前回は、木挽町の狩野画塾跡まで書きましたので、その後の見どころを追っていきます。
木挽町狩野家跡を過ぎて、昭和通りを越えると右手に弘電社のビルが見えてきます。
赤穂浪士一行は、弘電社前の交差点を左折しました。
このビルの西側に、昭和20年代まで、三十間堀川が流れていました。
赤穂浪士一行は、三十間堀川を渡らず、川沿いに新橋方面に向かいました。
三十間堀川は慶長17年(1612)に開削された堀で、京橋川(現在の新京橋出口付近)から汐留川に至る河川でした。
幅が約30間(約55メートル)あったために三十間堀川と呼ばれました。
江戸時代は、三十間堀川の両側には河岸が点在し大変賑わっていたといいます。
しかし、戦後の瓦礫処理のため昭和23年から埋め立てが始まり、昭和27年には埋め立てが完了しました。
太平洋戦争中の空襲などにより生じた瓦礫(がれき)をどう処理するかは、戦後の東京復興にとって重大なテーマでした。
そのため、このてっとり早く処理するために、都心部の堀や川が利用されました。
この瓦礫処理のために埋め立てられた川や堀は、東堀留川、竜閑川、浜町川、新川、三十間川、外堀の6つの河川だったそうです。
この川まで、瓦礫を人海戦術で運んで処理したそうです。
東京高速道路の新橋出口付近に中央区教育委員会が立てた説明板があります。
赤印の交差点で赤穂浪士一行は左折しました。 青印が説明板の設置場所です。